さらに、
「ほんとうのフィールドワーカーは、一伝承者個人の語りに耳を澄ますだけでは足りず、外部の「風」と内部の無意識の境界線上に生じる「幻聴」にも身をゆだねる大らかさを求められる。」と西さん。
幻聴。と近代の知の言葉では言うしかないものを、どうやって言語化するのか。
サガレンの賢治はどう言語化するのか。
サガレン(樺太)の風の言葉で物語はどう語られるのか。
サガレンの先住民には、風が文字を吹き飛ばしてしまったという伝承がある。吹き飛ばされた文字の行方がふっと思い浮かぶような情景がここには描かれている。
『サガレンと八月』冒頭。
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
西の山地から吹 いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着 をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。「おれは内地の農林 学校の助手 だよ、だから標本 を集 めに来たんだい。」私はだんだん雲の消 えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張 ってそう云 いましたらもうその風は海の青い暗 い波 の上に行っていていまの返事 も聞かないようあとからあとから別 の風が来て勝手 に叫 んで行きました。
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、しらべに来たの、何かしらべに来たの。」
風たちは内地から来た農林学校助手に問いを投げかけては通り過ぎてゆく。農林助手の言葉を吹き飛ばしてゆく。
それもまた風がみんな一語ずつ切れ切れに
持 って行ってしまいました。もうほんとうにだめなやつだ、はなしにもなんにもなったもんじゃない、と私がぷいっと歩き出そうとしたときでした。向 うの海が孔雀石 いろと暗 い藍 いろと縞 になっているその堺 のあたりでどうもすきとおった風どもが波のために少しゆれながらぐるっと集 って私からとって行ったきれぎれの語 を丁度 ぼろぼろになった地図を組み合せる時のように息 をこらしてじっと見つめながらいろいろにはぎ合せているのをちらっと私は見ました。
風が吹き飛ばした言葉を、はぎ合せている!
そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに
座 って乾 いて飛 んで来る砂やはまなすのいい匂 を送 って来る風のきれぎれのものがたりを聴 いているとほんとうに不思議 な気持 がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の厚 い何冊 もの百科辞典 にあるようなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や波 といっしょに次 から次と移 って消 えて行くものかそれも私にはわかりません。ただそこから風や草穂 のいい性質 があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。
この青地と赤字の部分、とても大事。
「風のきれぎれのものがたり」。
これを人間はどうやって書く?
『春と修羅』オホーツク挽歌の中から「鈴谷平原」のこんな一節も記憶にとどめておこう。
こんやはもう標本をいっぱいもって
わたくしは宗谷海峡をわたる
だから風の音が汽車のやうだ
流れるものは二条の茶
蛇ではなく一ぴきの栗鼠
いぶかしさうにこっちをみる
(こんどは風が
みんなのがやがやしたはなし声にきこえ
うしろの遠い山の下からは
好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな
すきとほった大きなせきばらひがする
これはサガレンの古くからの誰かだ)
死んだとしこをひたすら想うオホーツク挽歌、樺太の旅の間、吹きつづける風。
死者たちの声としての風の声。
以下、西さんの言葉。
「失われた命のひとつひとつをいかにして追悼し、鎮魂し、そういった死者の霊と交流しながら、それらの記憶を人類の遺産として留めるか?
いまや世界文学の最大の課題のひとつがこれである。