ポグロムの予感。  でもね、予感というのは、もう既にとりかえしのつかないことになっている世界に漂う気配のことでもあるんだよね……。

10日間、浮世を離れて、旅をしていた。

戻ってきて、無惨なメディアの状況、何も知らずに尻馬に乗る愚か者どもの跋扈にほんの少しだけ驚いた。

ほんの少し、というのは、10日も経てば、もしや静まっているんじゃないかと、ほんの少しだけ、ほのかに期待をしていたからだろう。

 

ポグロムの予感。

水晶の夜の予感。

 

 いま、ここでは、どうやら、そんな予感すら声に出すことすらできない空気が作られつつある。

 

「殺されたくないなら、どうぞ安全な国に行ってください。」

 

嫌な言葉だ。

96年前の9月、この国の東京の路上に飛び交った「15円50銭」と同じくらい無惨な言葉だ。

 

殺すこと、殺されること、追われること、根を断たれて生きることへの想像力を持たない者たち(それは、つまり命に対して傲慢な想像力しか持ちあわせない者たちであるが、その数はけっして多くはないはず、なのに)、その声がますます大きくなって、生きることの痛みや悲しみや歓びを分かち合う人々のかそけき声をかき消していく、大きな声が厄介ごとを避けたい人々の口をふさいでいく、はびこる大きな声が滅びの声であることを知りながら、人々は目をつぶり耳をふさいで生きるほうへと流されてゆく……。

 

96年前の「ポグロム」では、まず「朝鮮人」の属性を持つ者たちが狙われた。それは、「異形」であるとか、標準語を話さないという意味での「異声」であるとか、とにかく「異なる」ことへの攻撃となり、そうなればおのずと殺戮の対象は広がるほかなく、当然、富と権力を握る者たちとは異なる思想・信条を持つという意味での「主義者」にも殺戮の手は及んだ。「自分とは違うやつ」を人々は安心して殺した。朝鮮人も日本人もなく、ただ異なる者を。

 

「異なる者」たちに命を脅かされた経験を持たない者たちが、安心して「異なる者」への攻撃を開始するとき、そこには必ず、他者の命を自身の野心と富の糧にする容赦のないハゲタカの如き権力者の後ろ盾がある。

 

「あれがおまえの獲物だ!」というハゲタカの声にそそのかされて獲物にとびかかっていく者たちもまた、所詮はハゲタカの獲物に過ぎないことを、自分よりもかよわい獲物を嬉々として突つきまわす者たちは知らない。

『分解者たち  見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平 生活書院)  メモその3

水俣に行く前に、じっくり読みたいと思っていた『分解者』を読了。

 

近代合理主義と植民地主義と今となってはグローバル資本主義がもたらす徹底的な「分断」を、いかに「分解」するか?

 

生産者/労働者/消費者でしか存在しえない存在となった人間が、分解者であることをいかにとりもどすか?

 

猪瀬浩平が引用する「植民地下の人間」をめぐる金抗の文章は、印象深い。

植民地は、それゆえ、セキュリティの原始的な場、すなわち個人がただ生きるのみの動物になると同時に、その動物を排除することによって国家の民になれる場における、国家の民と動物が分割されるはざまの深淵そのものだと言える。

 

都市のはずれ、「動物」が吹き寄せられてくるところ、それがたとえば猪瀬浩平の思考と実践の「場」である「見沼田んぼ」だ。

そこには、障害者も朝鮮人もゴミも遺体も流れ着く。

 

人口減少と不平等の拡大の時代に、更なる経済成長という未来にすがって、<東京>が開発の欲望を果てしなく膨張させていく。そんななかで、東京の<果て>にある見沼田んぼに流れ着いたものたちを/と分解しながら、この時代を共に生き抜くための拠り所にしていく。もはや人間を主語として見沼を語る時代は終わったのかもしれない。私たちが見沼を守るのではなく、見沼が私たちを守るという認識を、もう一度取り戻す。

 

分断された私たちが新たに結ばれなおすための「場」を持つ、と私たちは常套句のように言う。その「場」は地に足がついているのか、(これは文字どおり「土」があるのか、ということでもある)、その場に集まる者たちは発酵しているのか、匂いを放っているのか、そこは何かに働きかけられて変態するものであったり、何かに働きかける菌であったりするものたちの「場」なのか、ということをあらためて思う。

 

山を知らず、海を知らず、都市でのみ近代を語り、国家を語り、人間を語り、人間以外のものを語らぬ者たちが形作る分断の世界とは異なる、分解の世界へと向かう<土壌>を想う。

 

明日、水俣へ向けて出発。めざすはまずは山の水俣

 

『分解者たち  見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平 生活書院)  メモその2

2017年7月下旬 相模ダム建設殉難者追悼会に筆者は自閉症の兄とともに参加する。

戦前にダム建設で亡くなった日本・中国・朝鮮の犠牲者に対してだけでなく、前年7月のやまゆり園事件の犠牲者に捧げる黙祷も合わせて行われたそのとき、自閉症の兄が叫んだ。「あーーーーーー」。

 

私は狼狽した。この時間だけはやめてくれと思った。しかし、私は兄に対して何もできずに黙祷を続けた。兄は、様々な人の視線を集めた。

 

叫んでいない私は、兄の叫び声に震えた。そして、自分は津久井やまゆり園の事件に対しても、何も叫ぶことなく、ただ言葉だけに頼り、言葉だけを発し続けていることに気づいた」 

 

名を明かされぬ(名を奪われた)犠牲者たち、「語ることができない人」とされていた者たちのことを筆者は思う。

 私が無残に殺されるとき――つまり、生きている、その最期の瞬間――に、叫ぶであろう声を、彼、彼女が叫んだものとして感じながら、確実に、彼、彼女のものでしかないことを想い、たじろぐ。

 叫んだ声が、吶喊である。 

 

吶喊を筆者は「共同体が立ち上がるとき、最底辺に置かれた受難者の声なき声」と言う。「万歳」(たとえば植松の「殺すぞ」というような意味ある言葉は、勝利を寿ぐ意味での万歳と、意味があるという点で同類の言葉)のように意味を持つ声ではなく、「吶喊」には明確な意味はない。

意味を与えることのできない苦しみのなかで、私たちは立ち尽くす。

なぜその土地であったのか、誰が命を奪われたのか、

人の名前(どんな生を経験した人なのか)と土地の名前(中心と辺境の関係の中で、そこはどのような場所なのか)は重要なことだ。

『分解者たち  見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平 生活書院)  メモその1

水俣で野生集会を持つ前に、『分解者たち』を少しずつ読む。

 

見沼田んぼに追いやられてくる「ごみ」、「排泄物」、「遺体」、「障害者」、「鶏や乳牛などの家畜、様々な生きもの」、そして「農的営み」。

それは「首都圏/東京という歪に肥大化した身体の肛門から排出されたものたち」である。

 

そして、私が見沼田んぼに惹きつけられるのは、それらの存在があるからだ。排出されたものたちが、思わぬ形で出会い、ぶつかり、交わる、すれ違う。そこでものとものが交わり、熱が生まれる。 

 

土壌に生息する生きものたちのはたらきのように、お互いに連動しながら、時に対立しながら、耕作放棄地だった場所で活動する。新しい価値を生み出すのではなく、すでにあるものを編みなおし、これまでつながっていなかったものをつなげ合わせる。(中略)朽ちた場所が別の営みの現場になる。植物遺体や動物の死骸、糞がダンゴムシによって摂食・粉砕されるように。そしてダンゴムシの糞と粉砕した残渣がミミズやセンチュウの餌になって、やがて土壌を団粒化させるように。そうやって首都圏の肥大化を鎮め、朽ちた部分をその先も生きるものへと開く。

 

本書では、このような運動を「分解」呼ぶ。

 

「分解」とは「循環」でもある。

藤原辰史は、資本主義社会が右肩上がりの発展という物語を紡げたのは、その土台に持続的な循環システムがあったからだと言う。

それを掘り崩して、掘り崩していることすら気づかず、あるいは、お金を産まないものとして価値を与えず、闇に押し込めていくのが、資本主義社会である、とすれば、

 

この「分解」と「循環」を資本主義社会の「最暗黒」からいかに「光」に反転させるか?

 

循環する命として、市場の論理を突き抜け、いかに資本主義社会を越えてゆくか?

 

本書で語られるのはそういうことなのだと、いったん確認して、さらに読み進める。

 

お盆休みも翻訳ホンヤク日々ほんやく。

『長江日記』(鄭靖和著)を翻訳している。本当のデッドラインの締切目前で凄まじく追いこまれている。

 

鄭靖和はこんな人。

鄭靖和(チョン・ジョンファ)

 1900年8月3日ソウルに生まれ、11歳になる年に大韓協会会長であった東農 金嘉鎭キム・ガジン(1846∼1922)の息子金毅漢キム・ギハンと結婚した。21歳になった年に既に中国・上海に亡命していた義父と夫のあとを追って上海へと脱出。中国で亡命生活を開始した彼女は、まもなく臨時政府密使として独立運動資金を募る密命を帯び、地下組織を通じて朝鮮に潜入、ひそかに密命を遂行した。

 第一次潜入以降、6回にわたって国境を行きかい、二十代の花のような年月を捧げた彼女は、1932年尹奉吉義士の爆弾投擲事件のために臨時政府要人たちともに上海のフランス租界を脱出。亡命政府を支えつつ、解放までの十余年間大陸で逃亡生活を送った。

 重慶で祖国解放を迎え、既に五十代になろうとしていた彼女は戦争難民という名で祖国に足を踏み入れたものの、ふたたび6・25(朝鮮戦争)に巻き込まれ、夫が北に連れ去られたため家族がばらばらとなってしまうのだが、その渦中で附逆(国家反逆)罪で拘束・起訴され、投獄されてしまった。

 それから40年の歳月が流れ、彼女は自身が生きてきた百年近い苦闘の歳月のすべてをついに証言し、1991年、恨多き生涯を閉じた。

 

上海、重慶で臨時政府に関わった韓国独立運動に名を連ねる要人たちの活動を支え、また夫とともに自身もまた独立運動に、妻として、母として、女性として、人間として、表舞台には出ることなく、さまざまな形で関わっていく。

解放後に暗殺された金九との関わりの深い人でもある。それゆえに解放後の権力闘争の勝者である李承晩の韓国(新たな支配者米国の意向で植民地の体制がそのまま温存された韓国)では、ひどく生きづらい状況に追い込まれもする。

そもそも臨時政府関係者たちは、解放後、個人の資格で、あるいは単なる難民として朝鮮半島に戻ることしか許されていない。米軍政によって力を削がれた形で帰国するところから、彼らの建国をめぐる闘いははじまり、そのほとんどは敗者となって消えていった。

鄭靖和が86歳にして臨時政府とともに闘ったその人生を語りだした時、それは、解放前の人生と解放後の人生がつながらないまま、かつての闘いがまるで意味のなかったかのように新しい国家にぞんざいに扱われながらも、その新しい国家が本当に取り戻すべき国家であったのかを問いながらも、語りつぐことそれ自体に明日への希望を託して、彼女だけが知る臨時政府秘史を、細やかなひとりひとりの思い出ととも呼び出してみせたのだった。

暮らしの中で接しつづけた独立運動家たちの素顔を彼女が語れば、かなり人間くさい。

臨時政府に集った人びとの独立運動とは、異国にあって、いかに食べて、命をつないで、闘うかという生存の問題でもあったことを彼女は如実に伝える。

どんな状況でも欲(名誉、権力)に囚われた人間たちのつまらぬ葛藤があることもまた彼女は語る。

遺言としてその物語を語る86歳の彼女のその声に、翻訳しながら触れていった私は、いま翻訳が終わろうとしているこのとき、やや涙ぐんでいる。これには自分でも驚いた。

闘いは必ずしも勝利では終わらない。たいてい負けるものなのだろう。

そして、その闘いの物語は、敗者の中でももっとも見えないところで主だった敗者たちを支えていた者の謙虚な肉声で語られる時、忘れがたい人間の物語(忘れてはならない人間の物語)として聞き手に届けられるようなのである。

 

 

 

 

 

奈良散歩 その2 夕方に思い立って、真弓山長弓寺 

先月末に奈良に越して、ようやくあたりを見回す余裕も出てきて、ご近所探索をはじめている。 
なにしろ神々(修験、新宗教、権威によって邪教淫祠にくくられた神々も大いに含む)の山、生駒山は目の前。
ご近所には真言宗天台宗融通念仏宗といった宗派の寺も多数。
そうだろうとは思っていたが、この界隈は修験の行き交う山であり、谷であったようだ。
山を崩して住宅造成された町の片隅に「役行者」像があったりする。
わがやの近所の地名は、これもまた「湯屋谷」「蛇喰」と意味のありそうな名。
さて、今日は歩いて20分ほどの真言宗 真弓山長弓寺へ。
よくある行基開基と伝えられる寺。
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入口はいきなり鳥居で「伊弉諾神社」とある。

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でも、これは明治以降のことで、伊弉諾神社と呼ばれている社は、もともとは長弓寺内にあった牛頭天王社。明治以降こうなったと寺内の伊弉諾神社の由緒書にはっきりと書かれていた。

長弓寺の境内東側にある伊弉諾(いざなぎ)神社は明治神仏分離以前は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守として建てさせたものという。長弓寺の参道入口に鳥居が立つことからもうかがえるように、近世以前は神仏混交の信仰が行われていた。

⇑ これはwikiから。とりあえずの参考までに。

 長弓寺内、伊弉諾神社(かつての牛頭天王社)。なんとも近代的な風景ですわ。

 

 そして、寺による神の名の書き換えの証言。由緒書(⇓)。

明治の初めに書き換えたまま、そのことを口外せず、そのうち<神々の明治維新>の記憶すら失ってしまっている寺社が多いなかで、もしかしたらここはひそかに気骨がある?

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 さらに辺りを見回すと、伊弉諾神社入口の灯篭(!)には、はっきりと牛頭天王宮と刻まれている。

 

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長弓寺本堂  鎌倉時代の建造物。国宝。拝観料300円をお賽銭箱に入れたのに、もう夕方だったので本殿は閉じられていて、平安時代作という木造十一面観音立像は拝観は出来ず……。

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この本堂脇に「役行者」がいます。

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役行者」の周辺には、西国巡礼三十三箇所碑だとか、三十三観音だとか。

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この西国一番から三十三番までの観音様たち。見たところ、古くは宝暦、寛政のものもいれば、平成のものいる。歴代の檀家、信者たちの奉納だろうか。 

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この寺は水子供養の地蔵が実に多い。

寺のHPを見れば、地域との共生を謳い、こころの相談室があり、さまざまな芸能文化のイベントを開催している。

現代版「里修験」的機能を目指しているかのような。

http://chokyuji-yakushiin.com/

 

ここ長弓寺では毎月二十八日に護摩祈祷をしているともいう。今度行ってみよう。

奈良散歩 その1 真夏の生駒山中は殺人的に暑い。教弘寺。あまりに暑くて、ここはまだざっくりとしか書けない。

役行者像があると聞いて、ぶらりと生駒山山中へ。

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本堂撮影し忘れた。次回に撮ってこよう。

本堂裏に不動明王像。京阪奈道路開通後、滝が枯れたんだそうな。水脈が断たれたんだな。水なしの不動明王

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不動明王拡大。

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境内には役行者

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役行者さらに拡大。

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境内の片隅に大峯参拝の碑

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年に一度、この寺には大勢の山伏がやってきて、ぱおーーと法螺貝を吹くのだと、寺の近くのCAFEのオーナーが教えてくれた。