本を読みつつ、雑感。

「希望なき人々のためにこそ、希望は私たちに与えられている」 by  ヴァルター・ベンヤミン

 

「神話の呪縛を断ち切りながら瓦礫の山を掘削する思考が、「忘れがたい」生の記憶を探り当て、それを今ここに呼び覚ます像に結晶するとき、時代の闇を貫く道を切り開きながら、真に言葉を生きることができる。」 by ベンヤミンを批評する柿木伸之

 

 

バベル以降の歴史世界、近代以降、民族に国家にと体系的に束ねるものとしての言葉があり、その言葉に束ねられてきた人間がいて、人間たちは瓦礫の近代に使い棄てられるように生きて死んで、そんな束で生きて束で死んでゆく「生」で形作られた閉ざされた世界では生きられない私たちは、内側から食い破る言葉を紡ぎだしてゆかねばならないのだろう。

束の中で生きられなかった者たちの名、まつろわぬ者たちの名で発せられる、それぞれに異なる生とともにある自立した言葉、無闇に繋げられず束ねられない言葉。となると、それは詩になるほかならないのだろう。

生き方としての「詩」があるのだと詩人金時鐘は言ったが、それが意味するところは、おそらくこういうことだ。独り立つ、独り行く者たちの言葉は互いに多くの余白を持ち、互いに互いの言葉をその余白に響かせ合うこと、(それを翻訳と呼んでもいい)、そこからさらに新たな言葉、新たなつながり、新たな想像力が生まれいずること、それこそが「詩」なのだ。

閉ざされた世界を突き破る。明るい闇に閉ざされた生、真っ暗な闇に封じられた死に、息を吹き込む、閉ざされた世界を攪乱する、革命する、そういうものとしての「詩」を生きること。

 

まずはひそかに、ひとりで。

 

そんな「ひとり」たちが集っては散ってゆく「場/媒体」を開いてゆくこと。

そこでは異人/異神たちの声、歌、語り、踊り、芸能が繰り広げられること。

 

 

 

 

 

 

이어도사나  済州海女の歌 メモ

◆海女たちは沖合の漁場をめざして舟を漕ぐ

이어도사나
이 노를 저어서 어디를 가리

진도바다 큰 물로 가세
한 쪽 손에 테왁을 들고
한 쪽 손엔 갈고리 들어
한 길 두 길 들어가보니
저승이 따로 없네

 

 

◆済州海女にも、帆を立てて出稼ぎの地へと航海する舟旅の航路を歌う道行きの海女歌がある。

 

城山浦日出峰をあとにして 安島に行くのだな

莞島地方を越えれば 薪智島過ぎて 

金塘島を越えれば あの大海もみな過ぎて

チヌリデ島を越えれば 羅老島を過ぎて

おもりの海を眺めゆく

突山島を越えれば オコゼの海を過ぎてゆく 

オコゼの海を過ぎゆけば 南海島だ 露梁海峡だ

蛇梁島の海を越えてゆく 青い海も越えてゆけば

巨済島知世浦長承浦を越えてゆく 

加徳島を過ぎゆけば、(意味不明)を越えてゆく

多大浦を過ぎゆけば 釜山影島にたどりつく

 

 

◆どんなときも生き抜くために海女は歌う。

 1932年済州海女抗争のテーマソングはこれ。

「海女抗日歌」   (詞:康寛順  曲:東京行進曲 1932)

 

1.

われらは済州島の哀れな海女よ

悲惨な暮らし 世の人の知る

寒い日 暑い日 雨降る日にも

あの海の波に揉まれるこの身よ

 

2.

朝は早くに家を出て 日暮れとともに帰ってくる

幼な子に乳やりながら飯を炊く

一日海に潜って 稼ぎは呆れるばかり

生きる不安に眠られぬ夜

 

3.

春の初め 故郷の親兄弟のもとを離れ

家族みんなの命の綱を背に負って

波高く激しいうねりの海を越え

蔚山 対馬に出稼ぎにゆく

 

4.

学のないわれら海女 行く先々に

やつらは搾取機関を設置して

われらの血と汗を搾り取る

哀れなわれら海女 どこにゆく

 

 

もともと牛島に伝わる「海女歌」とは別に、1932年の海女闘争時に作られ、歌われた。

三番までは他の海女歌にも歌われている内容。

四番こそが当時のメッセージであったが、それゆえ自由に歌うことは難しく、三番までのみが年老いた海女たちの間で歌われる。

 

 

◆パンソリのソリクン 安聖民に教えてもらったイオドサナ

 

어이어사나 아아아-이어도사나 으샤으샤

イオドサナ イオドサナ ウシャ ウシャ

물로야 뱅뱅 돌아진 섬에 먹으나 굶으나 아아아 물질을하여 으샤으샤

 ぐるりと水が囲む島で 食っても飢えても海に潜るよ ウシャウシャ

 우리 어멈 날 날적에 어느 바당에 아아아 미역국 먹어 으샤으샤

 おかあさんが私を産んだときには 海辺でわかめ汁を食べたよ ウシャウシャ

성님 성님 사촌성님 시집살이가 아아아 어떻습니까 으샤으샤

 ねえさん、ねえさん、嫁入り先の暮らしはいかがですか? ウシャウシャ

한푼 두푼 모은 돈은 서방님 용돈에 아아아 모자라간다 으샤으샤

 一銭二銭と集めた金は亭主の小遣い銭にもなりゃしない  ウシャウシャ

우리배는 소낙배요 남의배는 아아아 쑥대낙배요 으샤으샤

 われらの舟は松の木の舟、他の船は蓬の舟  ウシャウシャ

이어도물은 저승물이요 이어도문은 아아아 저승문이라 으샤으샤

 イオドの水はあの世の水よ イオドの門はあの世の門よ ウシャウシャ

 

◆済州海女の朝鮮内の出稼ぎ先は慶尚南道蔚山・機張あたりがもっとも多い。

そこはテングサとわかめの産地だったから。テングサは日本向け。

1926年 慶尚南道テングサ生産量は全生産量の70%を占めた。

 

◆出稼海女、旅する海女が激しく増えたのは、植民地支配の賜物

 しかも、戦争末期の徴用海女の仕事は、火薬の原料になる「かじめ」だけを採ること。それ以外の海藻類や貝類を採ることは許されなかった。

 

 

 

 

 

2019年12月18日 陸前高田  たね屋さんで、たね屋さんの歌を聴いた。 言葉の発生/発声

半年ぶりの陸前高田

官製 津波伝承館からまっすぐ海の方へ。

橋を渡って防潮堤へ。

(この橋は、防潮堤と町を切り離す橋のようでもある)

 

防潮堤には献花台がある。

(ここに献花するのは町の人ではなく、外からやってきた人のようでもある)

 

防潮堤が視界を遮って見えない海を、防潮堤の上から見る。

(嵩上げされた町に人の姿は見えない。多くの人びとは嵩上げのさらに向こうの高台に生活の場を移した。できれば、あまりに心が痛くて、津波の記憶は恐ろしいから、海の方には行きたくない、ずっと海の方には行っていないと、ある陸前高田の人は言った)

 

防潮堤から嵩上げされ町のほうを振り返って、見る。
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嵩上げされた町にポツンと建てられた立派な復興住宅の屋上から、海の方を見やる。

この風景の背後は、旧高田小学校で、いまは市庁舎建設工事が進行中。

この風景の、写真には写っていない、見えない左側には、私が震災後にボランティアで訪れた高田保育所(当時は、高田保育所は津波で破壊されたため、米崎保育園の旧園舎を使っていた)の園舎のあったところで、それもいまでは嵩上げの土の下に埋まっている。

人の姿のほとんどない碁盤目の人工風景の土の下に、無数の記憶を抱えたもう一つの町が、傷ついたまま、言葉を失くしたまま、埋葬されている。

見えなくなってしまえば、やがて、時とともに、地底の町は一筋の地層になって、考古学の範疇の存在になるのだろうか。

 

この人工風景、おなじく近代の極致であるハンセン病療養所の風景を想い起こさせた。「終末」を生きることを強いられたハンセン病療養所では、数多くの「はじまり」の言葉が生まれ出たことを、世のほとんどの人は知らない。

 

陸前高田の、この目の前の、いわゆる「復興」の風景は、明らかに「終末」の風景だろう、

そして、ここでも、この「終末」に抗して「はじまり」を語り、歌い、踊る者たちが、

一人、二人、と現われる。

 

荒野の狂人、あるいは、荒野の賢人。ヤバい人々。野生の芸能者、野生の哲人。

 

荒野は、「終末」を隠蔽した「復興」世界には到底収まりのつかない、はじまりの狂気を呼び出すのである。

(たとえば、いきなり神楽をつくりだした男もいる。震災前にはまったく神楽なんぞには関心もなかった男が。なぜ、どうして、そのようなプロセスを経ての極限状況での神楽なのか、という問いに本人自身も答えられないのだが、それは確かに、芸能の発生の風景なのだという不思議なことが、この荒野では起きている) 

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そのひとり、たね屋さんに会いに行った。

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たね屋さんは、震災前には高校までの英語の授業の他は書いたことも読んだことも話したこともない英語で、いきなり書きはじめた。英語の次には中国語でも書きはじめた。

震災に関する講演にスペインに招かれれば、スペイン語でスピーチをした。ポーランドからの支援のお礼は、ポーランド語で書いた。

 

震災の記憶を日本語で書くのはあまりにつらく、でもその記憶を語らずにはいられず、そのときたね屋さんが選んだのが、たね屋さんにとっては異人の言葉である英語であったという不思議。

 

『The Seed of Hope inthe Heart』

 

しかも、書くほどに、記憶は導きの糸のようにまた別の記憶を呼び出し、

ひとつの物語は、さらに別の物語の糸口となり、回路となるものだから、

この記憶の書はけっして閉じない、限りなく増殖してゆく、生きて息づく記憶の書。 

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たとえば、たね屋さんは、奇跡の一本松を、武蔵坊弁慶のように津波から陸前高田を守って、立派に立ち往生したのだと語る。襲う波はゴジラのようだ。

放射能の賜物のゴジラの波とは、それもまた恐ろしい。(放射能とまでは、たね屋さんは言ってない)

奇跡の一本松に弁慶の姿を見たならば、義経のことも書かねば、頼朝のことも語らねばと、英語で物語る声はどんどん物語を増殖させる。

その瞬間の、切り取られた時間、切り取られた風景、切り取られた物語を語るだけでは、脈々と生と死をつないで今を生きている人間の「語り」にはならないことを、たね屋さんは知っている。

というよりも、生きている者が、生きていくために語るかぎり、そうならざるをえないのではないか。

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記憶の物語が増殖するから、記憶の物語の中から、陸前高田の未来の物語も立ちあがって来るから、(それは「復興」の物語とは当然に違う)、物語る声は到底止まらない。

今も日に最低1時間、多い時は9時間は、英語で声を書きつけていく。

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スペインに講演に行った折りに、ギターをプレゼントされたのだそうだ。

それ以前はギターを弾いたことはない。でも、いただいた以上は弾かなくちゃいかんと、練習して弾きはじめたのが、今ではギターを抱えた歌い人。

 

日本語では書けない。( ) だから英語で書いた。

ギターをいただいた。( ) だから弾き語る。

 

この( )のところにある、あえて語らぬ声に耳を澄ますこと。

「復興」を高らかに語る近代日本語/近代日本の外に出てゆく、声と歌。

正しい文法? 正しい言葉? くそくらえ。伝わることが大事でしょ。

 与えられた言葉では、伝えたいこと伝えるべきことを伝えられない、そのもがきのなから、はじまりの言葉が生まれいずる。

 

youtu.be

気仙沼 リアス·アーク美術館に行った。その2

この美術館の展示は、学芸員の確信犯的主張に貫かれている。

だから、胸に響く。深いところまで声が届いて、ハッと気づかされる。

 

ああ、簡単なことだ、

太古より、人間は、水があって、土があって、森があって、食って生きていけるところにしか棲みつかないものなのだ。

人が集落をつくり、助け合って、長い歳月をようよう生き抜いてきた風土が、単なる生きられない貧しい土地に変わりゆくのは、実のところ、近代の到来ゆえのことなのだ、

近代に疎まれた風土の名もなき神々の死は、共同性の死であり、共同性亡き土地を資本主義経済が跋扈するとき、そこは「復興」という名の「最終処分」の場となる。

 

近代の仕上げ、もしくは、世界の終り。

 

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気仙沼 リアス·アーク美術館に行った。常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」

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ここは美術館なんですね。
で、学芸員もまた震災の被災当事者でもあります。
震災直後、調査員として美術館の学芸員たちが気仙沼の被害状況の写真を撮る。
そして、その写真にコメントを添える。

なので、展示されている写真のキャプションは、文字どおり学芸員の言葉です。

そしてこの言葉は、単なる記録ではなく、伝える意思を芯のところに宿した伝承のための言葉です。
(伝承館と銘打ちながらも、何を伝承したいのかがよくわからない、誰が伝承の主体で、誰に語りかけているのか、何を伝えたいのかが茫漠としている陸前高田の伝承館とはかなり趣の異なる展示です)。


写真に添えたコメントに加えて、学芸員による「東日本大震災を考えるkeyword」があります。
これは読まずにはいられない力のこもった言葉。

たとえば、「表現」をめぐって。ここには伝えることへの強い意志があります。
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あるいは、「文化……地域文化」というような。
この「地域文化」には、津波もまた含まれています。
長い歴史のなかで、何度も津波に襲われてきた、そしてよみがえってきた、その営みを地域文化として捉える。
それは、この地域に生きてきたこの美術館の学芸員の文化に対する一つの視点であり、主張です。
ここは主張する美術館です。

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そして、津波を地域文化として捉えるならば、その被害を「必然」として捉えるのもまた道理となりましょう。
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keywordは厳しい問いかけでもあります。
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写真に添えられたコメントのなかには、このコメントのように、学芸員自身の想いが強く現れ出たものもあります。
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そして、これは、被災物の携帯に添えられた物語。学芸員による物語です。はがきに印字されています。
ただ、この物語は、どれも語り口が似ていて、フィクション感が漂っています。が、それは嘘ではありません。フィクションを通して語られる被災の記憶です。
これは、記憶と記録と物語と「伝承としての表現」の関係を考えさせる「フィクション」です。
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この展示のほんの一部だけしか、ここでは語れないけれど、
写真や被災物に添えられた文字がとにかく多い。
文字がいっぱいの展示です。主張する展示です。表現する展示です。考えろと迫る展示です。
そういうわけで、この展示でなにより目を奪われたのは、これでもか、これでもかと差し出されるkeywordなのでした。
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メモ「海女抗日闘争」・ 出稼ぎ  

1932年 済州島 海女たちが頭にはしっかりと手拭を巻き、背にはつつましくも食料を背負い、手にした海女仕事の道具のホミとピッチャンを振り上げ、万歳と叫びながら行進した。

「私たちの要求に剣で応じるならば、私たちは死をもって応じる」

 

時はさかのぼる。

 

1876年 朝鮮の開国以降、日本の漁師たちが潜水業者を使って済州島の海であわび等を乱獲。

一隻の日本の漁船が一日当たり600個のアワビを採る。済州の港々の日本の漁船は3~400隻。

 

1890年代 済州島の海産物の収穫量は著しく減り、漁場は急激に疲弊してゆく。

あわび、てんぐさ、かじめ(ヨードや火薬の原料になる)等々が乱獲されたため、海女たちは済州の海で潜ることができなくなってゆく。海女たちは窮余の策として出稼ぎに出るようになる。

 

1895年 慶尚南道影島に最初の出稼ぎ。やがて朝鮮半島北部、日本、大連、青島、ウラジオストクとその行先は広がってゆく。(ウラジオストクでは昆布を採る。)

 

※済州海女の出漁地域は、大日本帝国の勢力圏だったことに留意すること。

 

1903年 日本への出稼ぎはじまる。 

1910年代 出稼海女2500余名

1912年頃 青島に寒天工場

1930年代 出稼海女4000余名 

  ※ 1929年 出稼海女3500名 漁獲高50余万円 

              ⇔ 島内海女7300余名 25余万円 

  ※ 1934年 出稼海女5000名超 漁獲高70万円

              ⇔ 島内海女5300名  27~8万円      

  

 

  ※ 出稼ぎは毎年4月~9月 

     

        ※ 出稼ぎの方が収入は多い。それでも、出稼先の地方の漁民との紛争、

    横暴な商人に苦しめられる。

 

釜山・影島を根拠とする商人たちは日本の貿易商の手先となり、海女の募集者兼監督者として、毎年陰暦正月~2月頃になると済州島にやってきて、海辺の村をまわり、必要な数の海女を募集するにあたって、前渡金の名目で前貸しをして雇用契約を結んで支配下に置き、出稼ぎで所得があれば、前貸しの金を高利で回収するのはもちろん、採集した海産物は商人を通じて販売する際に、100斤ならば90斤に値を叩いて搾取したため、海女たちの恨みの声も高かった。そのため、海女の中には商人とは関係なく、独自に出稼に出る海女団があったのだが、この海女たちに対しては現地で商人たちがさまざまな妨害工作に出たりもした。(済州島誌 上)

     

日本の貿易商が安く買い叩いた海女たちの収穫物は、日本人が経営する海藻会社に渡った。

 

また、海女たちが出稼ぎをするには船を使うのだが、船には必ずブローカーがいた。ブローカーは海女と商人との間で仲介料を取ったりもした。

つまりは海女たちは、苦労して採った海産物を正当な価格で売ることができず、間に入ったさまざまな勢力によって搾取され、手にする現金はあまりに少なかった。

 

1920年 海女を守るために海女組合の誕生  

1920年代半ば 組合の御用化 全南道知事が組合長に。

 

※ 畜産組合、林野組合、道路保護組合、漁業組合、海女組合等々、すべての組合が御用組合と化して、生産物の流通に介入、中間搾取を行った。

※たとえば、出稼ぎ地域で海女たちが採取した海藻類はほとんどが釜山の朝鮮海藻株式会社を通して販売流通するのだが、海女たちの全収益の50%が手数料として会社のものになり、18パーセントほどが海女組合の手数料となる。さらに組合費、船頭の賃金、ブローカーへの謝礼が差し引かれる。その結果、海女の取り分はほんの20パーセントほど。

※業者への販売価格も、予め業者の入札で決まっている。入札業者が独占業者となり、市価の半額程度で買い取られてしまう。

 

植民地支配下の収奪と搾取。

海女闘争を植民地下の抗日運動、民族意識涵養の社会運動の文脈でとらえる。

1920年代 女子青年会運動、女子夜学運動 ← 弾圧

1930年代 地下組織としての革友同盟。社会主義を学ぶ読書会。教育の機会を持たない階層への啓蒙。海女たちの夜学。

 

海女闘争 中心人物のひとり 金玉連の回想

私の生涯で大きな転回点となったまことに良い機会を私は得ました。村に夜間学習所ができて、私は夜の時間を使い、反対する両親を振り切って逃げるようにして夜間学習をはじめて、それが2年間続きました。夜学所は一方では日本の植民地の時期に独立運動の一環として意識ある若い男性知識人を中心に教育をするようになり、またもう一方では、女性たちに学びの機会を与える契機となった。当時は直接的な独立運動はあらわになれば弾圧されるので、間接的で長期的に独立のための準備として全国的に教育という方法で啓蒙しました。(済州海女抗日闘争記念事業会 1995)

 

当時、海女抗日運動の先鋒は、済州青年知識人たちが開いた夜学を通して民族意識と抗日意識を育んだ夫春花(25歳)金玉連(23歳)夫徳良(23歳)など年若い女性たちが中心となった。

 

1930年代 御用組合である海女組合への海女たちの不信。組合側のさまざまな不正。

      海女たちの数次の抗議の黙殺。

 

1932年1月7日 ハド里の海女300名が細花里の市場の日を利用して、本格的な示威行動に出る。彼女たちはホミとピッチャンを手に、肩には食べ物の包みを掛けて、ハド里から細花市場まで示威行進をし、そこに近くに村の海女たちも加わり、市場にいた数千の群集の前で集会を開いた。そして海女組合本部へと行進。(第一次示威)

 

1932年1月12日 細花市場の開かれる日に再びの示威。市場に巡視に現われた新任の済州道司を取り囲む。警官と駐在所員たちがりまわし、海女たちを威嚇する。剣には負けないと叫ぶ海女たちの要求に済州道事が対話の要求に応じる。

 

➯数日後、警察が示威中心メンバーを逮捕しようとすると、海女たち4~500名が警察車両へと押し寄せ逮捕者の奪還。警察側は武双警察隊を編制、海女たちと衝突の混乱の中で、主導メンバーの衣服にインクをつけ、それを目印に逮捕にいたった。

 

1931年から1932年1月まで繰り広げられた海女抗日運動はクジャ面、ハド里、細花里、ヨンピョン里、チョンダル里、ソンサン面シフン里、オジョ里等の海女をはじめとして、延べ17130名が参加した。238回にわたる集会、並びに示威を主導した体系的かつ組織的運動だった。

 

 

「海女歌」 康寛順作詞

 

우리들은 제주도의 가이없는 해녀들
비참한 살림살이 세상이 안다
추운 날 더운 날 비가 오는 날에도
저 바다 저 물결에 시달리는 몸

아침 일찍 집을 떠나 황혼 되면 돌아와
우는 아기 젖 먹이며 저녁밥 짓는다
하루종일 해봤으나 버은 것은 기막혀
살자하니 한숨으로 잠 못 이룬다

이른봄 고향산천 부모형제 이별코
온가족 생명줄을 등에다 지고
파도 세고 무서운 저 바다를 건너서
조선각처 대마도로 돈벌이 간다

배움없는 우리 해녀 가는 곳마다
저놈들은 착취기간 설치해 놓고
우리들의 피와 땀을 착취해 간다
가이없는 우리 해녀 어데로 갈까

 

 

◆日本内地の済州海女出稼ぎ地(1938年)

対馬、高知、鹿児島、東京、長崎、静岡、千葉、愛媛、神奈川、青島、三重

東京の出稼ぎ地は、三宅島、八丈島テングサ漁。

1932年、三宅島には240名の済州海女。

その他、下北半島、熊本・天草、五島列島佐渡唐津、新潟・佐渡島、大阪築港も。

 

◆海女だけではなく、直行航路のあった済州島から大阪への移動経験者は島民の5名に1人にもなったことを忘れぬこと。(杉原達 1998)

 

◆海女たちが日本に渡ってすることは、海女だけではないということ。

 紡績工場。縫製の家内工業

 

 

 

 

 

 

 

 

東北行  メモ01

やっと奈良にたどりついた。
 
東北の旅の間、復興という名の復興ならぬ何か禍々しいものを見続けて、
嵩上げという名の記憶殺しの現場も見て、(いまはまだ現在進行形の現場に立てば、作られつつある歴史の裂け目がまだ見える)、
震災遺構の瓦礫も見て(いや、被災者と同じく、記憶を秘めた被災物と呼ばねばならない)、
そして、
持ち歩いていた『ヴァルター・ベンヤミン』を折々読んでいた。
 
裂け目に立って、
被災物を目に食い込ませて、
歩いて、
想起すること、
そして、やつらが作り上げている歴史を”逆なで“すること、
やつらの歴史に楔をうちこむこと、
 
「歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事とをその名で呼び出し、死者の記憶を証言することである」
 
「今や歴史は、「抑圧された者たち」から語り出される」
 
「歴史を語るとは、この地点から、破局破局を重ねてきた過程を見返して、それを中断させることである。ここに革命が起こる」