デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために  新しいアナーキズムの視座』  メモ

思うに、アナーキズムを語ることは、わたしたちの「暮らし」「社会/共同体」「生」をめぐる想像力が、なにものによって形作られ、あるいは囲い込まれているのか、ということを語ることでもある。

 

資本主義の外に、国家の外に、想像力がはみ出していかないように、

その外などないかのように想像力を封じ込めるために、

あらゆる手段が講じられているのが、資本主義/国家なのだということ。

 

この「想像の共同体」からの逃走はいかにして為されるのか?。

 

未開から文明への発展の結果として、国家が出現したのではないということ。

ピエール・クラストル『国家に抗する社会』にあるように。

現在の私たちの想像力は、「政治的なるもの」を「国家」と「暴力」の領域とするが、クラストルが見出したのは、アマゾン社会において政治的領域とは、「国家」と「暴力」の可能性の否定のためにあるということ。

そして、「われわれが無垢で原始的と考えているこれらの社会は、実は文明化された社会からの亡命者や反逆者たち」なのだということ。「高貴なる野蛮人」ではないのだということ。

 

想像力を閉じ込める「国家」「文明」「暴力」からの脱出の一つの形、十分にありうる可能性としての「国家に抗する社会」を想い描くこと。

 

「国家」という名の「ユートピア的妄想」と「急襲的略奪機構」。そこから、いかに逃れ出るか?

 

いかに、ひそかに、異なる想像力が蠢く「場」を開くか、そして、ひそかなまま、いかにつながりあうか、ということ。

 

 

序文(高祖岩三郎) より

 

グレーバーいわく「資本主義は、現に存在している共産主義を、管理/統制しているだけである」。少し視点を変えて言い替えるならば、われわれの世界を土台的に形成しているのは(中略)血みどろの抗争、対立、矛盾ではなく、そのような次元さえも、暗黙のうちに下から支えている、幅広い「コモン(=共通なるもの)」の領域である。

 

この「コモン」は、つねにすでに存在する「共同作業」の領域としての、つねに存在していた「人間的条件」としての「コモン」。

これは、アルフォンソ・リンギスが『何も共有していない者たちの共同体』で語っていたことと響き合うようでもある。

 

アナーキズムの人間、あるいは闘う民衆は、支配者(国家/資本)に対して、あくまで非対称的存在である。

 

それは主人になりたいがなれない怨恨(ルサンチマン)にまみれた、「主人」の否定的な分身としての「奴隷」ではない。むしろそれはその本性において、「寄生者」としての支配者に対する、「宿主」あるいは「母体」なのである。だからその階級闘争は、決して「東軍(対)西軍」というような二項対立の形態をとらない。それはむしろ「抱擁」と「溶解」を土台にした、より複雑な、あるいは豊かな戦術をとるだろう。

 これこそが、今日われわれが直面している地球的な闘争の現実である。かくして今こそ「共に組織する時」であり、われわれは「共に考える場所」にいる。

 

 

 

 [考えるべきこと]

 

●状況をいかに喜劇に、祝祭に、変換するか。

 

●行動する前に完璧に現実を定義する必要などない。

(この複雑きわまりない流動的な現実を完璧に定義することなどいったい誰ができようか?)

●訳通不能な思考の共棲  

(これは「声」の領域では日常的に行われていることではないか。「語り」の場では意識することもなく行われてきたことではないか。たとえば石牟礼文学とは、このような共棲の所産ではなかったか。これは詩の領分のことでもあるのではないか)

 

●「市民的不服従」と「直接民主主義的組織化」

●「最も疎外されていない人びと」であり「最も抑圧されている人びと」の大きな可能性。

換言すれば、「オルタナティブな社会像を容易に想像できる人びと」と「最も熱心にオルタナティブな社会を見たい人びと」による革命的な連帯の可能性。

  具体的には、「一定の自律的労働を知っているか、記憶している人びと(=非疎外的生産の経験と記憶のある人々)」であり、「最も抑圧されている人びと」でもある者たち。サバティスタ、チアバスの土着民、ブラジルの土地なき農民のグループ、

(サバティスタ曰く)「われわれは軍隊でなくなることを目指す軍隊である」

 

※ たとえば水俣。漁民たちの非疎外の記憶、それはある種、不知火海という神話的世界として石牟礼道子は描き出すが、(そのように読み手の多くは読み取るが)、それを神話的世界と受け止める近代国家の想像力を突き抜けて、それこそが「もうひとつの世」へと向かうきわめて実践的なはじまりの「場」なのだということに気づくこと。

神話的世界を取り戻す、ということではなく、そこからはじまるのだということ。

 

加害と被害の記憶にとどまらず、被害の最たるものとしての、破壊された「非疎外的生産の暮らし」の記憶をしっかりととどめること、伝えていくこと、受け取っていくこと。その伝承のあり方を考えること。詩、語り、文学、芸術、さまざまな形で。

 

●人権論はアナーキストの役には立たない。それは国家の存在を前提としているから。

人権を主張する思考は、国家を超越する何かに訴えかけるが、それは結局意味を成さない。

例えばハンナ・アレントは、難民というものは、人間の原理的存在形式であると言いました。なぜなら、彼らは人間性というもの以外のすべてを剥奪されているからです。彼らはもはやどの国家の市民でもなく、一定の共同体に属すことから得られる権利はありません。彼らが持つ権利とは、単に人間であることの「刻印(dint)」のみなのです。とはいえ、難民についてさえ、何らかの形で国家が介入していなければ「権利」について問題にすることは不可能です。(p115)

 

 

●貨幣はどうして使われるようになったのか、市場はなぜ作られたのか。

 もっとも効率的な富の収奪のために。具体的な物の収奪ではなく、統一の通貨をもって、市場を交換の場として、万物を手に入れることが可能にするシステムとして。

 

●国家とは制度化された略奪機構である。

●一体どのような根拠で、国家は税金を要求しうるのか? 何の権利において?

 

アナーキスト運動は、たとえば紀元前200年~300年の中国戦国時代にもあった。

 「農家」という学派。実践によって人びとを階層序列のある共同体から遠ざける方法論を駆使。(実験的感染主義)

 

●政治とは、「現実とは何かを主張することで、現実を創造しうる領域」である。

 王というのは、単にみなが王だと思う人、それが王を政治制度とする。このいかがわしさを忘れぬこと。新しい社会的現実の創造には、ある種の詐欺がある。

 新しい社会形態や制度を創造するためには聖なるものが必要である。

つまりわれわれが別の世界を創造するための梃あるいは蝶番が必要なのです。しかし聖なるものの力と神秘は、同時に危険なものでもあります。あらゆる虐待的な階層秩序もまた、最終的に力と神秘に訴えるものです。それを武装解除するために、われわれは冗談を真面目に実践せねばなりません。アナーキストはそのような衝動に満ちています。(p151)

 

 

●すべての社会はある基底的な共産主義、つまりクロポトキンが「相互扶助」と呼んだものの上に築かれている。 

究極的に資本主義、国家、あらゆる制度は、この共産主義とそれが可能にする無限の創造性を孕んだ形式に寄生しています。(p153)

 

anarchismという言葉は、プルードンがつくったものですが、すでに言ったようにそうみなせる運動形態は、すでに中国の戦国時代にありました。(p173)

 

アナーキズムを三つの次元の現象の複合と考えることができます。

第一に平等主義的な実践の諸形式の存在――反階層序列的な決定、協業(等々)の機構、

第二に、第一によって可能となる権力や権威の構造への挑戦――これが人びとに権威の形式は必要ないことを実感させます。人びとが資本主義を不正義と考えるのは、彼らがすでに日常生活の中で、共産主義を経験しているからなのです。

そして最後に、ユートピア的理想という次元。平等主義的社会実践の経験は、われわれに強要されたどのような権威の形式も間違っていることを実感させます。だからわれわれはそれが存在しない世界を想像するわけです。

 

 

人類史を通してアナーキスト的社会運動、革命運動はつねに存在してきたのです。一九世紀になってある一定の人びとが、それに名前を付けたというだけのことです。プルードンを読んでも、バクーニンを読んでも、その他を読んでも、彼らがやったことはそれだけです。(p174)

『苦海浄土』 江郷下ます女の語り。  そのときは月夜だったのか、雨夜だったのか。

 

水俣病で亡くなって、解剖されて、包帯でぐるぐる巻きにされて、目と唇しか見えない、真っ白な包帯には血のような汁のようなものがにじみ出ている、わが娘和子を、ます女は背負って、水俣駅の先の、踏切のところから、わが家のある坪谷へと、夜の線路を歩いていくのです。

 

そのときの情景をます女はこう語る。

まずは、『苦海浄土』第二部神々の村 第四章「花ぐるま」より。

 

お月さまの在んなはりましたっでしょうかなあ、枕木の、ちっと見えとりましたっでしょうか。坪谷の手前まで、水俣駅から、小半里ぐらい。今夜が和子、別れじゃねえち、母ちゃんが背中におるのも、今夜までぞう。苦しみ死にするため、生まれて来たかいち、死んどる子ぉに語り語り、歩きました。

月夜の線路。背には死せる娘。

 

そして、『苦海浄土』第三部 天の魚 第二章「舟非人」より。

柔らしゅう歩こうばってん、この汽車道の、なかなか、よかあんばいに歩かれんとぞ……手切るるめえぞ、うちに着くまで、首ども、つっ転がすまいぞ……。

 解剖してある子にそういいきかせまして、歩いては止まり、歩いては止まりしながら、雨のしとしと降る晩に、汽車道の上ば、長うかかって連れて帰りましたです。親子ながら、ぐっしょり濡れしょぼたれて。かなしゅうございましたばい。今でもなあ。

 

雨の夜、親も死せる娘も濡れそぼる汽車道

 

 

苦海浄土第二部「天の魚」は、1974年刊行。

第三部第三部「神々の村」は、2006年に刊行されている。

ちなみに、第一部の刊行は1969年。

 

第二部と第三部の間には32年の月日が流れている。

その間に、雨に打たれて和子を背負って江郷下ます女の汽車道は、月夜の線路へと移り変わる。

どちらが正しいのかって?

どちらも正しいんですよ。

正しさを問うこと、それ自体が意味のないことなんですよ。

語られたその情景は、語られたそのときの真実である、それが「語り」というものなのだから。

 

 

 

 

 

石牟礼道子の夢の光景  『苦海浄土』第二部 第四章「花ぐるま」より

 

河出書房版『苦海浄土』P343下段~

 

 

思えば潮の満ち干きしている時間というものは、太古のままにかわらなくて、生命たちのゆり籠だった。それゆえ魚たちにしろ貝たちにしろ、棲みなれた海底にその躰をすり寄せてねむり、ここら一帯の岩礁や砂底から離れ去ろうとはしない。

 人家にほど近い磯に立って、渚の樹木の根元に今朝ほども捨てられたかとおもわれる、貝塚の山を眺めていると、漁夫たちの誰かれの顔が、縄文期の人びとのように見えてくる。ここはついさきごろまで、いや今ですら、労働と牧歌と祖型の神舞いのごときが、日常の中に混和して、山間の祠の間や洋上の舟の上で、わかちがたい世界をつくっている。水揚量の多寡も漁の種類もそういう世界のためにこそあれ、年寄りたちから赤子まで、そのような村落の欠くべからざる要員だった。

 

 

 

P344 上段~

「東京の坐りこみに、わたしがゆき来していた頃、死んだおそよ小母さんは言っていた。」という一文ではじまる、おそよ小母さんの語る道の祭の情景は、実のところ、石牟礼道子の夢の中の道の祭の情景なのではなかろうか。

 

道の神さんを先頭に、村の婆さん爺さんが着飾って、三味線弾いて、舞って、飛んで、腰の萎えた婆さんまでもが舞い踊る、そんな祭の情景。

 

山の中に道が拓けたのを祝って繰り広げられる、道の祭。夢の情景。

 

 

「東京は都じゃろなあ、わたしゃ、往たこた中ですが……。やっぱりここらへんの往還道から、続いとりますとでしょうもんねえ。祭より賑おうとるちゅう話ですが……。はあ、思い出すよ。

 うちげの村に、往還道が、はじめて通りました時にはですなあ、みんな喜んでもう、道祝いじゃちゅうて、みんなして、道の神さまに参りに行きましたですばい。一統連れで祭り着物着て。山ん峠に、薩摩の方と往還道のつながりましてなぁ。

 山ん向こうにまでですなあ、遠うさね、ひかひか道の出来とって。あの道は、どこまでばっかりゆくとじゃろうかち、考えればおとろしかごたるよち、婆さんたちの言いおられましたがなあ。わたしゃ五つばっかりで、子どもでしたばってん、おぼえとりますと。紐解き着物着せられてゆきましたけん、ばばさんに手えひかれて。

 道の神さまにお神酒あげて、お払いして、踊りば上げんばばらんちゅうて、迫々から、うっ立ち晴れしてなあ。みんな神さん参りの着物着て。婆さんたちばかりじゃなか、爺さんたちまで、紅白粉つけて、太鼓持って、菅笠かぶってですよ、花結びにしてなあ、顎の緒は。そして道行き三味線ば弾いてゆきますとですよ襷がけで。その襷の美しゅうございましたこつが、水色やら桃色で後結びにして。飛なはるもんで、ひらひらしますと。飛ぼうごたる道でしたもん。まっさらか道でしたけん。

 婆さんたちのまあ、目のさむるごたる赤か腰巻きして、高う飛んで、舞いなはりましたがなあ、いつもは、腰の萎えとらす人もですよ。草履にまで紅白布ば編み込んで、舞い草履にして。熊笹やすすき原の間ばなあ。山に出来た新しか道ですけん、道の神さんたちの、まっさき往きなはっとでしょうなあ、ああいう時は。芝居、映画でも、ああいう景色はみたこたなかですよ。山の美しかですけん、あのあたりは。

 大関山やら、御嶽さんやら、亀齢峠のあるあたりですけん。途中まで、こうまか神さんのおんなはるところでは、止まって、舞いおさめしてですね。そういうときは、みんな神さんの子になっとる気のしますとなあ。目えのくらくらしとって、もうよか霧の出て。

 

おそよ小母さんの印象深いこの言葉、 

 

往還道ちゅうのは、どこまでもどこまでもつないでゆけば、世界の涯までゆかるるとでしょうもん。

 

そして、また、この言葉、

わたしはああたに、語ろうごたることのあるとですばってん、東京になあ、ゆきなはるなら……。いつ帰っておいでなはりますと? 花の長崎ち、むかし言いよったですばって、今は、みやこは東京ですもんね。わたしどま、そういうところにゃゆかれませんとなあ。なんばして生きとりましたやら、空夢ばっかり見て、都のなんの、ゆくこたなかでっしょ、田舎人ですけん。 

 

「空夢ばっかり見て」と語る、その空夢の美しさ、せつなさ。

 

世界の涯までつながることが、すみずみに宿る神さんたちとつながることではなく、

近代の都とつながることであり、とてつもない災厄を招き寄せることであったことを、照らし出す、美しい語り。

 

『越境広場』第7号 金東炫「なぜ済州から沖縄を読み解くのか」  メモ

「済州から沖縄を読み解くことは「国家とは何か」を問うと同時に、「国家」を経由しない地域の思惟と連帯の可能性を打診することである」

 

[前提]

太平洋戦争末期、済州もまた、沖縄同様、本土決戦に備えての捨て石の島とすることを想定されていた。

 

日本の敗戦による解放後、済州はアメリカの傘の下、反共国家建国を企図する者たちによって「アカの島」として島民虐殺が繰り広げられた。

 

民主化を経て、済州4・3真相究明運動が法制化されたが、加害者であった「国家」が慰霊と追慕の対象を規定する主体になった。

 

[問い]

しかし、いったい「国家」とは、「制憲的権力」とは何なのか?

ベンヤミン曰く、「法はその起源から暴力に依存するしかなかった。」)

(主権の範囲を制定する瞬間、外部と内部は暴力的に断絶されていく)

 

「国家」という根本的暴力をしかと認識すること。

「国家」を覆う米国の傘、その下にある東アジアの構造的な矛盾を直視すること。

 

民主化された韓国においても、済州・江汀(かんじょん)に海軍基地建設が強行され、2018年文在寅大統領は江汀で行われた国際観艦式に参席している。

住民との対話の席が設けられたが、そこからは基地に反対する住民は排除されていた。

 

 

「一九六九年済州島で発行されたある雑誌には沖縄特集記事が載せられた。急な特集の背景には、当時沖縄から米軍が撤収される場合、済州島が新しい米軍基地の候補として取り上げられていたという事情が隠されている」

 

「よく日本本土の平和が沖縄の犠牲を前提に「想像」されたものだと言われる。韓国の平和も同様である。済州という犠牲のシステム、済州という内部植民地が大韓民国の今を作り出しているという自覚、国家内部の矛盾をより批判的に読み解くための試みは、沖縄というテキストを経由しない限り不可能だ」

 

「済州4・3文学と沖縄文学を一緒に読むことは共同体の分裂と非国民の記憶を共有することである」

 

 

アメリカ>日本>沖縄   アメリカ>韓国>済州 沖縄と済州。それぞれに二重の植民状況にあり、「国家」に閉じ込められたまま互いに互いを「想像」していては、済州は沖縄を、沖縄は済州を「発見」できない。 既に内面化されている植民主義を意識すること。 それを抉りだすこと。

 

 

 

文学の秘密を語る声。/『越境広場』第7号 中村和恵「ほおろびに身を投じる――エドゥアール・グリッサン『第四世紀』に見出すモルヌの風とカリブ海のもうひとつの歴史/物語」

『越境広場』第7号。女の声が強く響く『サルガッソーの広い海』(ジーン・リース)と『第四世紀』(エドゥアール・グリッサン)を対比させつつ、カリブ海の作家たちの「もうひとつの物語」を見渡しつつ、正史のなかには存在しない口承的記憶と文学について語る中村和恵さんの声に聴き入った。

 

「たとえば先住民族が支配者たちの言葉で語るとしても、それがかれらの物語であるなら、かつての記憶はかならずそこに片鱗をとどめている。反映しながら、変容する、影響されながら、つくり変える。力は一方向にだけ動くものではない。そして同時に、それらの新規な古い物語は、生きた物語であるために、忘れられつづけなくてはならない。すなわち、語られ/読まれ/書かれつづけなくてはならない。口承でいわば演じられるたびにオリジナルが上書きされつづけ、新たなオリジナルに変容しつづけるように。

 

 正確さを重んじ唯一の事実を突き止めるためのものと考えられがちな過去の探求の過程で、じつは「なぜ」「なぜなら」で時間と空間を結索することはできないのだと悟り、合理的な論理を一度手放すとき、正史の語りは風に吹き飛び、年代記/歴史はほうぼうでほころび、ほつれ、詩的言語と魔法の論理に溶け出す。全部わかったということは、おそらくできないテキスト世界の展開が始まる。もう一度呼吸を整えて、ほころびに身を投じよう

〈番外編〉 京都の牛頭天王社の痕跡を歩く。

2020年5月8日(月)

午前9時半より京都・神宮丸太駅から歩き始める。

『増補 陰陽道の神々』(斎藤英喜著 思文閣出版)に収められているコラム「いまも京都に棲息する牛頭天王」が本日のナビ。

 

今では牛頭天王を祭神としている神社はないのだが、岡崎東天王町、岡崎西天王町という町名に残っているように、岡崎神社(東天王)、須賀神社(西天王:かつての社殿は現在の平安神宮蒼龍桜付近、跡地に西天王塚が残っている)は、かつては牛頭天王を祀っていたのであり、岡崎通りを南下していき、粟田口にある粟田神社もまた牛頭天王、そこからさらに神宮道を下って円山公園を抜ければ、やはりかつては牛頭天王を祀っていた八坂神社となる。そして、粟田神社は、八坂神社の分社ともいえる社だ。明治以前、神仏分離以前、八坂神社と改称を強いられることになる以前の「祇園感神院」の、新宮が粟田神社になる。いまも粟田神社の鳥居の変額には、「感神院新宮」とある。

 

今ではどの神社でも牛頭天王スサノオに置き換えられている。もちろん、明治の神仏分離によるものだ。

 

斎藤英喜さんのコラムによれば、

安永9年(1780)刊行の「都名所図会」を眺めると、けっこうあちこちに「牛頭天王」にまつわる神社が出てくる。たとえば、「牛王地社」。下河原の南にあり、現在地は不明。「播州広峯より初めて鎮座し給ふ地なり」とある。また一乗寺山下黒松の東にある「天王社」。舞楽寺の社となっている。「北の天王社」ともいう。あるいは京田辺市にある「牛頭天王社」普賢寺谷の山の上に鎮座。現在も「天王」の地名が残っている。さらに『拾遺都名所図会』にも、「烏丸通高辻の北、古祇園の御旅所なりという「牛頭天王社」がある。現在は烏丸仏光寺下ルに「八坂神社大政所御旅所址」の碑がある。また下鳥羽の東、伏見区下鳥羽にある「田中天王社」。八坂神社から勧請されたという。その他、中京区壬生椰ノ宮町の「梛神社」は、広峯から牛頭天王を勧請したという「元祇園社」と呼ばれている。

 

このような基本的な知識を頭に入れて、歩き始める。

歩かなくちゃわからないことはたくさんあるからね。

 

f:id:omma:20200609220616p:plain

 

神宮丸太駅を降りて、東へと歩き出すと、道の向こうにやたらと立看の並ぶ建物が見える。京都、立看と言えば、京大ではないか。と思っていたら、やはり「京大熊野寮」とある。

うん? 熊野寮? ここは熊野か? 

と、いぶかしく思いつつ歩いて行ったら、目の前に熊野神社が現れたのだった。

(横浜に生まれ育った私は、1年前に移り住んだばかりの関西の地理についてはほぼ白紙状態。京都も修学旅行のほかは、所用でピンポイントで来たことがあるくらい。まだまだ土地勘はない。)

f:id:omma:20200612205457p:plain

f:id:omma:20200612205614p:plain

 

f:id:omma:20200612205708p:plain  f:id:omma:20200612205733p:plain


熊野とくれば、八咫烏でしょう。境内には摂社もいくつか。

f:id:omma:20200612210416p:plain

●神倉神は、熊野速玉大社の摂社である神倉神社の祭神。新宮市内の神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)の山上の岩がご神体。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになったという。

●須賀大神は、おそらく、出雲の須賀神社の祭神ではないか。素戔嗚命のことを言う。

●そして春日大神は、春日大社からの勧請だろう。

 

こういうことを書いていると神社マニアかなにかと誤解されそうだが、いま奈良や京都で寺社を訪ね歩いているのは、明治の「カミ殺し」の跡をたどる旅なのである。

f:id:omma:20200612214023p:plain

歩いて初めてわかったこと。なるほど、ここは聖護院通り、修験道本山派の総本山聖護院がある。熊野神社は聖護院の森の鎮守として、平安時代に建立、のち焼失し、1666年の再建だという。

つまり、知らずに足を踏み入れたけれど、このあたり一帯は、明治以前は修験の二大勢力の一つ本山派(天台宗系。 ちなみに、もう一つは真言宗系の当山派で総本山は伏見の三宝醍醐寺)の修験の本拠地であったのであり、通りに聖護院八つ橋総本店を見つけて、おおおお、あの裁判で創業年代がでたらめと言われている聖護院八つ橋!!とか、喜んでいる場合ではなかったのだった。

 

そして、修験の盛んな地に、牛頭天王社も軒を並べているという、んんん、この風景はどこかで見たことがある……。そう、奈良・富雄川沿いの、かつての修験の寺と牛頭天王社が軒を並べる風景。

 

こちら京都は町なかで本山派の町、(地図でだけ見ていた時には、こんなにいわゆる町だとは思っていなかった)、

あちら富雄川沿いは田んぼやら畑が広がる田園風景で(おそらく)当山派、真言宗霊山寺は大峯修験の先達寺で、「湯屋谷 ゆやんたん」という土地での富雄の谷の呼び名はたぶん霊山寺内を流れる「湯屋川」に由来するのではないか。

いずれにせよ、修験と牛頭天王のつながりを、はからずも京都聖護院あたりでつくづく考えたのだった。

 

京都のあの一帯の牛頭天王はもちろん祇園社つながりでしょう。

奈良のあの一帯の牛頭天王は? と考えた。

 

「増補 陰陽道の神々』に、奈良には南都興福寺の大乗院門跡に仕えた賀茂家の庶流の幸徳井(かでい)一族がいた。

ちなみに、賀茂氏とその嫡流末裔勘解由小路家が暦道の、安倍氏とその嫡流末裔土御門家が天文道を宗家だった。江戸時代には賀茂家のほうは衰退していたという。

また、土御門家のその独自の神道教義の中には仏教系の牛頭天王は登場しない。

 

(幸徳井一族も)「大乗院門跡」という権門に仕える上級陰陽師であるが、さらに、中世後期の大和の地には十座(興福寺)・五箇所(大乗院)と呼ばれた「声聞師」(唱聞師)集団がいる。(尾崎安啓「中世大和における声聞師」)。彼らと幸徳井家はけっして支配・被支配の関係を結んでいなかったようだが(林淳『近世陰陽道の研究』)、奈良の地には、宮廷社会を離れた賀茂家=暦家の流れが「陰陽師」として活動していたことはたしかなようだ。ちなみに、近世奈良には、近年有名になった「陰陽(いんぎょう)町」という暦陰陽師たちが居住する地域があった。(木場明志『近世土御門の陰陽師支配と配下陰陽師』)

 

(中略)

 

南都の民間陰陽師は「賀茂」の末裔とする伝承を多く伝えているという。

 

(中略)

 

さらに奈良の地には、牛頭天王信仰との接点もあった。奈良春日大社に所蔵される「牛頭天王曼荼羅衝立」である。この曼荼羅衝立はもともと春日社の摂社水谷社の社殿に祭られていたという。「牛頭天王信仰」を通して、南都と祇園との間に深い関係があったことが知られよう。

 

 

さて、奈良への寄り道はここまで。京都に戻る。

 

f:id:omma:20200612235653p:plain 


 f:id:omma:20200613002948p:plain

石がご神体の小さな祠が並ぶ御辰稲荷を通り過ぎたところの角を左に入って、

まっすぐ行けば、真宗の寺のある四つ角。

「もうじき皆ひとりで死にますえ」と含蓄のあるお言葉を眺めつつ、左に曲がる。

f:id:omma:20200613003520p:plain

 

左に曲がれば、もうすぐそこに須賀神社。かつての西天王社となる。ただし現在地に移ったのは1924年だし、ここには牛頭天王の痕跡もない。

 

f:id:omma:20200613003754p:plain f:id:omma:20200613003929p:plain

f:id:omma:20200613004014p:plain f:id:omma:20200613005712p:plain

 

須賀神社の向かいには、積善院準提堂。聖護院門跡の門跡を代行することもあったという寺。今の須賀神社より、こちらに興味を惹かれて、境内に入る。


 

f:id:omma:20200613004428p:plain  

f:id:omma:20200613004202p:plain f:id:omma:20200613005550p:plain

f:id:omma:20200613004908p:plain f:id:omma:20200613004952p:plain

 

ただでさえ恐ろしい呪いの崇徳院が、なまって「ひとくい」になるという。

すどくいん、すどくい、ひとくい  日本語は「ん」の音がよく落ちるんだよね……。

ここから進路を東に取り、錦林小学校の脇をとおり、東天王社(現在の岡崎神社)を目指す。

「 錦林」は聖護院の森の別称。

 

東に5分も歩けば、岡崎神社。

祭神は素戔嗚、櫛稲田、そしてその子どもの神々。

牛頭天王は素戔嗚に置き換えられて消されている。神社由緒書にも「東天王」と称されたとあるが、なぜ「天王」なのかの言及はなし。

広峯から勧請されたカミの名前もなし。

今は、牛頭より、うさぎ。

f:id:omma:20200614100339p:plain

f:id:omma:20200614100416p:plain

 

f:id:omma:20200614100521p:plain

f:id:omma:20200614100613p:plain

f:id:omma:20200614100647p:plain

 

 

ここから南に下り、粟田神社を目指す。暑い。

神宮丸太からぶらぶら歩き出して、すでに1時間半ほどが過ぎている。

通り道の家の軒先に八坂神社の山鉾の、厄除けの「蘇民将来」のちまき

 f:id:omma:20200614101732p:plain f:id:omma:20200614101524p:plain

 

f:id:omma:20200614101910p:plain

 

粟田神社着。

扁額に「感神院新宮」とある。「祇園社」の新宮の意。

ここは牛頭天王を祀る「粟田天王社」であったと由緒書に明記している。

f:id:omma:20200614101955p:plain

f:id:omma:20200614102208p:plain

 

入口に鍛冶神社。2.5次元の「刀剣乱舞」の人気のすさまじさをここであらためて知る。

 

f:id:omma:20200614102452p:plain f:id:omma:20200614102737p:plain

 

 

粟田神社境内。 京都市内一望。赤い鳥居は平安神宮の鳥居。

f:id:omma:20200614103024p:plain

 

 

 

f:id:omma:20200614103158p:plain



さあ、終着地点、八坂神社を目指して歩き出す。

f:id:omma:20200614103449p:plain 

 

青蓮院を通り、知恩院を通り過ぎ、円山公園を通り抜け、八坂神社に至る。

 

f:id:omma:20200614103612p:plain  f:id:omma:20200614103650p:plain

f:id:omma:20200614103846p:plain 

 

円山公園から、いったん八坂神社を通り抜けて、祇園の町なかに出て、昼食。

ふたたび八坂神社。

八坂神社正面。

f:id:omma:20200614103923p:plain

 

f:id:omma:20200614104120p:plain

 

 

f:id:omma:20200614132230p:plain

門をくぐって入ると、ほぼ正面に疫神社。牛頭天王の名残の社。

祭神 蘇民将来

ここで「ハヤスサノオ」と書かれているカミが「牛頭天王」。

この由緒書に書かれているものは、ここは元祇園社だというのに『祇園牛頭天王御縁起』とは異なり、備後国「疫隈の国社」(江熊祇園社)ゆかりの縁起譚に近い。

 

ともかくも、ここでは牛頭天王が消えて、牛頭天王をもてなしたことで救われた蘇民将来がカミになっているというわけだ。

蘇民将来の一族と名乗れば、牛頭天王が救ってくれる、

だから蘇民将来子孫と書かれたちまきがお守りになる、

お守りに名を書かれている蘇民将来がカミになる。

つまり、カミを歓待した者もまた、カミに。

f:id:omma:20200614104346p:plain

f:id:omma:20200614132255p:plain

 

f:id:omma:20200614132532p:plain

f:id:omma:20200614132825p:plain

本殿。いまや本格的なコロナの世ですから、本殿の鈴を鳴らすための鈴緒をはずされて、お賽銭箱の上に手をかざすとセンサーが感知して鈴の音を鳴らす仕掛けになっておりました。電子音では空気も震えないね。

 

f:id:omma:20200614132855p:plain

八坂神社を出て河原町のほうへ。鴨川べりを少し歩く。

 

f:id:omma:20200614132932p:plain

 

さて、『祇園牛頭天王御縁起』に書かれている、蘇民将来の兄の巨端将来の屋敷を襲う牛頭天王の眷属の話はなかなかに恐ろしいものです。

山本ひろこ『異神 下』(ちくま学芸文庫)には以下のように書かれている。

天王は眷属の中の「見目(みるめ)・嗅鼻(かぐはな)」に、巨端の家を偵察してくるように命じた。二人が行ってみると、巨端は占い師に、最近、怪異な出来事が起こるわけを占わせていた。占いの結果は「三日の内に大凶となろう。これは牛頭天王の罰である」と出た。驚いた巨端は「どんな祈禱をすれば逃れられるか」と尋ねると、「たとえ三伏祭をしても天王の罰を免れることは不可能だろう」と占い師は答えた。巨端は占い師の袂を摑んで懇願した。すると占い師は「千人の法師を集め、大般若経を七日七夜読誦させれば、もしかしたら逃れられるかもしれない」と答えた。

 

見目・嗅鼻は走り帰り、以上のことを天王に報告した。天王は「八万四千の眷属」に対し、巨端の家に攻め込み、「末代の煩い」である「邪見・放逸の徒」を一人残らず滅ぼすよう命じた。眷属軍が巨端の家に到着してみると、千人の法師が並んで大般若経を読誦していた。その六百巻の経は、たちまちに四十余丈・六重の築地となり、経の函は天蓋となって侵入を阻んだ。

 

報告を聞いた天王は次のように示唆した。「よくよく観察してみろよ。千人の中に片目に疵のある法師がいる。その者は酒飯に満腹し、酔いしれて寝ており経を読んではいない。時々ははっと目を覚ますが、違う箇所の文字を読んでしまうはずである。そこを突破口に乱入し、巨端と一族郎党をことごとく蹴殺せよ」

 

それを聞いた蘇民将来が、「巨端の家には、私の娘(乙姫)がいる。娘だけは助けてほしい」と頼んだ。すると天王は、「では、”茅の輪”を作って赤い絹に包み、”蘇民将来の子孫”と書いた札を娘の帯に付けさせよ。そうすれば災難から免れるだろう」と指示した。

ふたたび巨端の家に押し寄せた眷属軍が「巡見」してみると、天王の言葉通りだったので、「謂無き字を読む法師」の所を侵入口として突入、巨端一族を殲滅した。

 

 

これは文字で武装された世界を、モノノケどもがいかにして突き崩すかという話でもありますね。

そもそも八万四千の眷属軍の、この「八万四千」という数字は、人間の体の毛穴の数なんですね。

 

東の牛頭天王社の雄、津島社の神官によれば、

「属神ハ是レ一歳三百六十日一時一刻ノ主神ナリ、人身ニモ亦毛孔之主神也。半放タレ半留マル者ハ、縦ヘバ秋冬既ニ往クト雖モ、春夏ノ気此ニ留マル。又一年生ジテ毛孔ノ堅(ヨダ)ツト、猶(ナオ)偏(ヒトヘニ)身ノ乱雑 之ニ与カラ不ルガ猶(ゴト)ク然リ矣」(山本ひろ子『異神』より)

 

「毛孔の主神」たる(牛頭天王の)眷属神は、「一時一刻」という微細な時間の襞に棲みついて、季節をも支配しているのだった。「隔年」ごとに半数ずつ放たれるのは、「行疫」のための周到なエネルギー交換とでもいえようか。放出される「疫気」と滞留する「疫気」の交替。その不屈の生命活動を保証するものこそ、膨大なる眷属たちの存在にほかならない。

 

わが身の八万四千の毛孔に宿るカミたちをぞわぞわと想像すること。

『沖縄と朝鮮のはざまで』 メモ    牛馬としての朝鮮人「軍夫」

動物化というキイワード。

 

証言1 

古堅には朝鮮人の軍夫もたくさんいたが、日本軍に牛馬の扱いをされていてとてもかわしおうだった。あるとき、私の家の前で、一人の朝鮮人軍夫が、日本兵に激しく叩かれて「アイゴー、アイゴー」して泣いていた。

 

 

証言2

沖縄本島の)渡久地には数十人の朝鮮人軍夫が来ていて、(…)ごく些細なことでもなんくせをつけられて殴り倒されていた。牛馬に等しい扱いをうけて男泣きに泣きじゃくっていた光景は、いまも忘れることができない。(…)一、二分でも作業に遅れると、それこそ半殺しの目に会うのであった。

 

 

重労働、飢え、日本兵による暴力などにより、名も知らぬ島に連れてこられた朝鮮人「軍夫」は、地上戦が始まる前から死の危機にさらされていた。その危機は「軍夫」が置かれた立場によるものであった。

つまり、朝鮮人「軍夫」は軍隊秩序の下位に置かれると同時に、「牛馬の扱い」とあったように人間と動物のはざまに置かれた

 

 

「軍夫」たちは「牛馬」として動物化されたからこそ、沖縄戦が激化して以降も奴隷的労働を強いられ、米軍と日本軍の両方から死にさらされることになったのである。朝鮮人「軍夫」たちが甚大な被害を被った大きな理由は、彼らを下位に位置づけ、かつ動物化するその構造にあった。