復習  植民地期韓国の童謡運動 概略

童謡「半月」に寄せて。

 

   作詞・作曲 尹克栄

푸른 하늘 은하수 하얀 쪽배에
계수나무 한 나무 토끼 한 마리
돛대도 아니 달고 삿대도 없이
가기도 잘도 간다 서쪽 나라로

은하수를 건너서 구름 나라로
구름 나라 지나선 어디로 가나
멀리서 반짝반짝 비치이는 건
샛별이 등대란다 길을 찾아라

 

[映画「マルモイ」と童謡「半月」]

 

 

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以下、『30年代 童謡選集』解説より

 

「月の上でうさぎが桂の木の下で餅つきをするなどというのは、もう昔話になってしまった」現代から、植民地期の童謡を振り返る。

 

1920年代から光復まで歌われた韓国の童謡は、子どもが歌って遊んで楽しむものであっただけではなく、帝国主義強占期にあって民族の抵抗を鼓吹する手段でもあった。

 

当時の音楽状況といえば、日本式教育による唱歌などの普及により、日本の流行歌が流れはじめ、その一方で西洋音楽の導入により新式音楽が流行した。


(日本でもそうであったが、新しい音楽はまずは子どもたちが教育によって西洋音階を身につけることからはじまっている。日本においては唱歌を歌う子どもたちは、そのまま軍歌を歌う兵隊へと育ってゆく。もちろん流行歌も歌う。植民地期韓国での日本式唱歌教育はすでに大韓帝国保護国化した1905年以降から少しずつ始まっている。日本の学校唱歌が韓国語に翻訳されて、韓国の学校教育において教材として用いられた。1910年5月には、日本の学校唱歌をそのまま韓国語にして収めた「普通学校唱歌集」が出版されている。例えば、その一つに「蝶々」のような今でも日本でも韓国でも歌われる「唱歌」がある。)

 

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※1910年5月といえば、これはまだ日韓併合前、保護国段階でのこと。

 

そのなかで、1920年代に、今も歌い継がれている「半月」、「故郷の春」「鳳仙花」のような童謡が、韓国人による創作童謡として生まれてくる。

そこには「半月」(1924)を作詞作曲した尹克栄(1903~1988)の活動がある。

 

1923年3月京城で、방정환(방정환(方定煥)を編集人として、月刊誌「어린이」創刊。

 

方定煥は天道教(東学思想の組織。3・1独立宣言に参加)の少年会で活動をしていた。

雑誌「어린이」は天道教少年会の機関誌として発行され、童謡・童話・児童劇脚本等が掲載され、毎月一つずつ、創作童謡が発表された。

雑誌「어린이」からは多くの童謡作家、童話作家が誕生した。1934年廃刊。

 

1923年5月1日、東京で、방정환(방정환(方定煥)が提唱する子ども文化運動の組織としてセクトン会」が組織され、そこに尹克栄も創立メンバーとして参加。

 

方定煥が1923年のある日、東京留学中の尹克栄を訪ねてきたのだという。尹克栄は方定煥との出会いにより、朝鮮の子どものための朝鮮の歌という思いを抱くようになる。

 

彼らは、朝鮮の子どもたちに、朝鮮の言葉、朝鮮の調べ、朝鮮の情緒をと、文化運動を繰り広げた。

 

尹克栄は、関東大震災の翌年の1924年京城に戻っている。

父親の助力で自宅敷地内に「一聲堂」という別棟が造られ、尹克栄はそこで実際に子どもたちに指導し、童謡を普及する活動をする。その活動母体としての「ダリア会」も組織(1924年8月)。

 

尹克栄の童謡創作の本格的な試みはこの時期に始まり、「半月」は1924年東亜日報に発表されている。

 

1926年にはダリア会の子どもらが歌う「半月」が収められた童謡レコードも発売されている。

(ちなみに、朝鮮で初めてSP盤が発売されたのが1925年のこと。京城放送局の開局も同年)。

 

 

자신이 만든 노래들을 당국의 감시를 피해 등사판으로 몰래 찍어 초등학교 교사들에게 보냈다. 이 노래들은 순식간에 전국으로 퍼져나가 어린이들이 즐겨 부르게 됐고 총독부도 이를 막을 수 없었다.

 

(尹克栄は)自身が作った歌を当局の監視の目を盗んで謄写版でひそかに印刷し、初等学校の教師たちに送った。歌はあっという間に全国に広がり、子どもたちが喜んで歌い、総督府もこれを遮ることはできなかった。

                     (聯合ニュース 2017年10月2日) 

 

※映画 「말모이」の挿入歌に「 반달」が流れる。そのことの意味がここにある。

 

 

 

 

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雑誌「어린이」誕生の背景には、日本の童謡運動の揺籃となった『赤い鳥』(1918~
1929年休刊、1936年廃刊)の存在がある。

 

『赤い鳥』は北原白秋の協力を得て、鈴木三重吉にとって創刊された。

 

 

 

 

 

 

 

 

安藤昌益の「猫」あるいは「炉」

最近、毎月勉強会に参加して、少しずつ読んでいる安藤昌益。

江戸のアナキスト

ただし、ここに抜き出すのは、興味関心に沿った非常に偏った抜粋。

 

安藤昌益全集 第1巻 稿本自然真営道第二十五より

「炉ヲ以テ転下一般ノ備ハリヲ知ル論」

転下万国ノ人家、敢ヘテ異ナルコト無キ一様ノ備ハリナレドモ、聖・釈ヨリ以来、城郭・宮殿・楼台、寺塔・社壇、町家・在家、柾家・草家、非人小屋等、万品ト成ルハ、上下ノ私法ヲ立テ、四民・遊民、諸職ヲ為ス故ナリ。是レ乃チ聖・釈ノ罪ナリ

 

家家、大小・美疎異ナリト雖モ、家ノ形象ニ於テ一般ナリ。是レ一転定ナル故ノ備ハリナリ。然シテ、家ハ転定ノ象リ、家内ノ炉・竈ハ即チ転定ノ間ノ一活真・自感・四行・進退・互性・八気ノ妙徳用ナリ。故ニ炉・竈ニ於テ、上、王ヨリ、下、非人小屋ニ至リ、木火金水、全ク二別無シ。

 

つまり、

この世の身分の別は、聖人・釈迦がそのような制度を作ったからだ。やつらに罪がある。

 

人が生きるに、かならずや「炉」がその中心にある。そこでは自然の活真が自己運動をして四行となり、さらに進退運動をして相互関係を持つ八気になるという精妙なはたらきが宿されている。だからこそ、炉と竈の木火金水の運動において、王宮から非人小屋に至るまで、なんの違いもない。

 

※昌益は「天地」を「転定」と書き革める。天ー地という上下関係ではなく、めぐる動き、とどまる動きを内包した「転」と「定」。

 

※江戸期の思想家である昌益は陰陽五行(木火土金水)から出発し、やがて「土」をすべての根本と考え、「土」を別格として中心に置いたうえでの「四行」で世界を語り、森羅万象を説くようになる。「土」を知らぬ支配階級など論外の存在なのである。

 

●そして、猫。以下は安藤昌益全集第11巻 「禽獣巻」より

木火土金水 この五行が天地・日月・星々となり、炉に発現して人間の生活を営ませている。したがって人家の炉には天地・日月・星々・生物のすべてが象徴されており、あらゆる思いや心がつくされている。この天地・宇宙における森羅万象を人家の炉における五行の自己運動が体現しているのである。

 

人家の六畜

薪木=馬 炊事の水=牛 鍋釜の金=犬 燃える火=鶏 灰土=猫 炉の煙=鼠

 

は人家の炉灰の木が人食の余気と鼠の多生の気に感合して生ずるものである。炉や竈や灰土の気に生ずるので、炉の灰や火の暖気を好み、そこを離れることができない。

鼠の多気が灰土と感合して生じたものなので、鼠を食う。人気の余気に感合したものでもあるから、人の食物の余りを何でも食う。

これは人気・鼠気・灰気・殺気という多くの気が感合して生じたものなので、長生きすると老獪になる。これは灰土の革気に生じた証拠である。

 

炉の灰はしばらくすると土になる。灰は火から生じ、灰は土となって気を革める役割をつかさどり、同じように四季の土用は一年の進退する四時を革める。

(中略)

 

猫もまた五行の精妙な発現であるから五常をそなえている。

 

鼠を捕食するのはその生まれつきの習性であるが、沢山の鼠がいても、一匹を獲って満腹になれば、いたずらに殺すことなく、後のために貯えて必要以上は殺さない。これは猫の仁だ。人が鼠を憎悪して、猫に一度に多くの鼠を捕えさせようと考えるが、これは猫にも劣るもくろみだ。

 

猫が人の食物である魚を盗み食おうとねらっていても、人のいるときは見つかって打たれる屈辱を思って、我慢するのは猫の義だ。

 

飼い主を慕い膝にのっても、ほかの人の膝には嫌がってのらないのは、猫の礼

 

人が鼠の鳴き声を真似ても、鼠でないことを承知しているのは、猫の智

 

空腹でも鼠を獲ろうと熱中し、盗み食いをしようとしないのは、猫の信である。

 

 

そして、猫の瞳に注目!

炉の灰土の革気の精をうけているため、猫の内臓はよく気行の変革に対応する。この変革は特に猫の眼にあらわれ、その瞳は天地の気行の進退に感応して、時とともに変化し、昼夜の日月の運行に反応する。これこそが猫が炉の灰土の革気の精を受けて生じた明らかな証拠である。

朝夕の六時には黒い円になり、朝晩の八時には三角、昼と夜の十時には楕円、真昼と真夜中の十二時には針のような形になる。

 

[猫の眼の変化の図]

  写真の説明はありません。

 

真夜中の十二時に退気が極まって一に戻り、真昼の十二時に自然の進気が極まって一になる。これは天真のはたらきがはじまる微かなきざしである。そこで猫の瞳も針のようになってそれを示す。これは猫の身体が天地の気の進行に合致し、反応することを如実にあらわしている。

 

(中略)

 

このように毎日の時刻を知るには猫の瞳が一番よい。自然のはたらきそのままであるから狂うはずがない。正確とされているオランダの時計も、これには遠く及ばない。

 

灰は簡単に土に変わる。この気を受けているため、猫は何年たっても老いて死ぬことがなく、形を変えて獺(かわうそ)になる。俗説にいう猫が化物になるという誤りはこのことによるのだろう。

 

猫の毛色がいろいろあるのは、土気のよく革めるはたらきによる。肉は甘味(注)でその性質は偏りがなく変化しやすい。人が食うと毒になるので食ってはいけない。犬は猫を食うわけではないが、猫に出合うと嚙み殺そうとする。これは猫が犬よりも性質が下でありながら、灰土の気を受けて人の座に近く、犬の上にいるのを憎んでいるためである。

 

注:五行では「土」は甘味。

備忘録 田村語りにまつわること  その2

奥の細道 末の松山・塩釜

 

それより野田の玉川・沖の石を尋)ぬに末の松山は寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。

松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。
五月雨の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。
あまの小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「綱手かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀れなり。
その夜、盲法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。
平家にもあらず、(幸若)舞にもあらず。
ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。

 

 

浮世風呂』前編巻之下「午後(ひるすぎ)の光景」より 

五人づれのさとうのうち二人の盲人、風呂の中にてせんだい浄瑠璃を語る。

「さる程に爰に又、九郎判官義経どのが、八島をさして下らるる、(引)。扨早、其日の出立には、上には赤地の錦の直衣(ひだだれ)を引張り、下(しだ)には紺の布子(ののこ)のどてらを引張りけり(引)。附属(つきしたが)ふ御供には亀井・片岡・伊勢・駿河・西塔の武蔵坊、彼等なんどが御供にて、尻から泥水の流れるやうに下らるる(引)。(中略)そもそも真桑瓜とかけては、俵藤太秀郷と解きまする。其心はあんだんべ。むかでかなわぬと解きたり。御大将我折果(おんでへそうがおりはで)だよ。コリャ又弁慶は日本一の謎解きの名人だよ。よろこびいさんで八島の浦へ着にけり。(中略)おつかけまわつて弁慶が、三尺あまりのめめずのとげを、あたまのどんのくどへ、ふんづらぬいたツけ。是には何かよかんべい。ハテ朧豆腐の黒焼がよかんべいとぞかたりける。(中略)御代もかさねし万々歳、貴賤上下おしなべて感ぜぬ者こそなかりけれ。」

風呂の中にていちどうに ヤンヤヤンヤ。

 

 

菅江真澄 遊覧記 「かすむ駒形」 

天明六年(1786)一月~二月の日記

2月6日

六日 あしたは春雨めきて、夕月ほの霞て出ぬ。琵琶法師来りぬ。是も慶長のむかしより三線(サミセム)にうつりて、猫の皮も紙張の撥面ニ化(カハ)りたるが多し。曽我、八嶋、尼公物語、湯殿山ノ本事、あるは千代ほうこといふ女の戯ものがたりなンどの浄瑠璃をかたれり。こたびは「むかし曽我也」声はり上て、「ちちぶ山おろす嵐のはげしくて、此身ちりなばははいかがせん」と、語り語りて月も入りぬ。明なば とく出たたむとて枕とれば、ひましらみたり。

 

2月21日

廿一日 けふは時正也。近隣(チカドナリ)の翁の訪来(トヒキ)て、都は花の真盛ならむ、一とせ京都(ミヤコ)の春にあひて、 嵐の山の花をきのふけふ見し事あり、何事も花のみやこ也とて去ぬ。数多杵(アマタギネ)てふものして餅搗ざわめきわたりぬ。けふも祝ふ事あ り。日暮れば某都某都(ナニイチクレイチ)とて両人(フタリ)相やどりせし盲瞽法師(メシヒノホフシ)、三絃(サミセム)あなぐりいでてひきた つれば、童どもさし出て、浄瑠璃(ゾウルリ)なぢよにすべい、それやめて、むかしむかし語れといへば、何むかしがよからむといふに、いろりのはしに在りて 家室(イヘトジ)のいふ、琵琶に磨碓(スルス)でも語らねか。さらば語り申さふ、聞きたまへや。「むかしむかし、どつとむかしの大むか し、ある家に美人(ヨキ)ひとり娘が有たとさ。そのうつくしき女(ムスメ)ほしさに、琵琶法師此家に泊りて其母にいふやう、わが家には大牛の臥(ネタ)ほど黄金(カネ)持たり。その娘をわれにたうべ、一生の栄花見せんといへば母の云やう、さあらば、やよ、おもしろく琵琶ひき、八島にてもあくたまにても、よもすがらかたり給へ。明なば、むすめに米(ヨネ)おはせて法師にまいらせんといふを聞て、いとよき事とよろこび、夜ひと 夜いもねず、四緒(ヨツノヲ)もきれ撥面もさけよと語り明て、いざ娘を給へ、つれ行むといふ。先(マヅ)ものまいれ、娘に髪結せ 化荘(粧)(ケハヒ)させんとて、磨碓(スルス)をこもづつみとして負せ、琵琶法師の手を引かせて大橋を渡る。娘は、あまり負たる俵の重くさふら ふ也、しばらく休らはせ給へと、休らひていふやう、いかにわがおやのさだめ給ふとも、目もなき人の妻となり、世にながらへて、うざねはかん〔うきめ見んと いへる事也〕よりは今死なんとて、負ひ来つる台磨碓(シタスルス)をほかしこめば、淵の音高う聞えたり。女は岩蔭にかくれて息もつかずして居たり。かの琵琶法師ひとりごとして云やう、あはれ夫婦(ウバオチ)とならむよき女也(ムスメ)と聞て、からうじて貰ひ来りしも のをとて、声をあげてよよとなき、われもともにと、その大淵に飛込て身はふちに沈み、琵琶と磨臼はうき流て、しがらみにかかり たり。それをもて琵琶と磨臼の諺あり。とつひんはらり」と語りぬ。

 

昭和の盲法師 故・鈴木幸龍の「悪玉懐胎の様子」

昭和8年7月)

さても浮き世は広いもの、悪玉がようなる女めと契りたる男はよっぽどさもしい悪性者、達磨のようでぢつくりで、しかも反っ歯で獅子鼻で、どんぐり眼に額のかけ下げ、鳩胸で尻が出て足がちんばの、髭だらけ、さても似合うた夫婦づれ、吸いついたりひっついたり、何んぼう嬉しがったろう、おかしうておかしうて臍がよぢれる腹痛いぞと高笑い (後略)

 

※奥浄瑠璃に元来正本は存在しない。「生きた語り」は、時・場所・聴衆・語る人のそれぞれのおかれた条件や状況によって演ずる時間も語る内容まで変幻自在に変化する。

創造行為としての語り。

 

 

 

備忘録その1  「田村語り」にまつわること

以下のメモは、『東北の田村語り』(阿部幹男 三弥井書店)による


坂上田村麻呂の説話化の道]

811(弘仁2) 「毘沙門の化身、来りてわが国を護ると云々」(『公卿補任


その1 清水寺がらみ


平安末     『今昔物語集』巻11 清水寺草創縁起

大和国子島寺の延鎮が、淀川付近で一筋の金色の流れをみつけ遡ると山城国東山の辺に至った。そこで行叡という修行僧に会ったが、行叡はここに伽藍を建て、前の木で観音を造ることを願って東国へ去った。一方、坂上田村麻呂は狩猟の途中奇異な水の流れをみて、その源をたずねると修行する延鎮に会い、二人は力を合わせて伽藍を草創、八尺の十一面観音を造立した。

1322(元亨2) 虎関師練『元亨釈書』のうち「清水寺延鎮伝」  将軍田村は延鎮が造って清水寺に祀った勝軍地蔵・毘沙門天により、奥州逆賊高丸との戦いに勝つ。


室町    謡曲「田村」
www.the-noh.com


その2 長谷寺がらみ

1200~1209頃  『長谷寺験記』  

奈良県長谷寺の本尊十一面観音の霊験説話の集成。2巻。1200~09年(正治2~承元3)に成る。編者未詳。長谷寺関係の僧で、おそらくその勧進聖(かんじんひじり)か。上巻に19話、下巻に33話をそれぞれほぼ年代順に配列する。類型的、一般的、あるいは他寺の霊験説話を長谷観音の霊験に語り変えるなど、長谷寺を顕揚する姿勢が著しい。個々の説話は、登場人物の名、年月日を細かに叙述する傾向がある。霊験の真実性を強調して、勧進に効果あらしめる方法の投影とみなされる。 [森 正人] 『永井義憲編『長谷寺験記』(1978・新典社)』

ここに、「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」(田村将軍、馬を得て、軍/いくさに勝ち、新長谷寺を建立すること)が収められている。(『験記』下・第5)


田村将軍が戦勝祈願で長谷寺に参篭したところ、童子が一匹の馬を引いてきて、戦いのときは必ずこの馬に乗るようにとの伝言を伝える。この馬が水上を駆け、山や峰を飛び越し、矢も立たない。尋常な馬ではなかった。この馬が陸奥国三迫で突然死ぬ。葬ったところ7日目に光り輝き異香を薫じたので墓を掘ると、生身の十一面観音がいた。田村はそこに寺を建立。新長谷寺と名付けた。同時に奥州6か所に寺を建立。延暦19年(800)6月16日に同時に6か所に落慶法要、田村は6分身して参席した。これが田村が毘沙門天の化身と言われる所以。


●1052年 大和の長谷寺炎上。
 藤原一門が中心になって再興に着手。

 造営料を割り当てられた全国有力者のなかに、奥州藤原氏陸奥の金。

「田村丸伝説をつたえる水越遮那山長谷寺をはじめ「長谷」と名乗る寺院は、この頃奥州に入った長谷寺勧進聖たちによって建立されたと考えられる」(阿部幹男)

注) 勧進の例として。

   森末義彰論文(1937)によれば、
   長谷寺は草創以来、何度も炎上している。中世においては本尊十一面観音にまで焼亡が及んだのは4回。
   1219年/1280年/1495年/1536年


   1495年(明応4)全山焼失の際、復興事業のために勧進聖(寺の長老級)決定。→ 大和の諸荘郷以下全国にわたって勧進網を広げる。


   ※勧進勧進帳の完成を俟って行われる。勧進帳をもって、権力者に諸国勧進の御聴許を受ける。

 


達谷窟からの道は、北上川にでて南下すると黄金山神社のある遠田郡登米郡へ、東に太平洋に出ると気仙郡、伊勢の朝熊山が想起される経塚群がある田束山を中心とする本吉郡奥羽山脈に沿って街道をすすむと高鞍の庄の金売吉次の事跡をツタエル金成、さらに熊野山黄金寺や音羽山清水寺のある岩ヶ崎、鶯沢山金剛寺義経ゆかりの白馬山栗原寺、奥州藤原時代に建立された浄土庭園を模した大伽藍の金峰山花山寺、そこから奥羽山脈を越えると酒田や大宝寺城(鶴岡)へ、そして加賀の白山・美濃の白山長滝寺・越前の白山平泉寺へと「黄金」のネットワークが広がる。


●白山修験は鉱山開発に長けていた。
 白山信仰は古くから産金にからんで陸奥に入り込んでいた。


藤原利仁との融合

鎌倉時代初期 『吾妻鏡』 坂上田村麻呂利仁将軍が達谷窟に立て籠った夷の賊主悪路王や赤頭を征伐


鈴鹿の立烏帽子」の説話との融合
●蒙古襲来がその契機。→ 幸若舞「百合若大臣」(「田村語り」との共通点) 

簾内敬司を読む。

森崎和江つながりで、あらためて簾内敬司をじっくりと読んで、茫然としている。 この人の、深々と東北の風土に根差した、この恐るべき声を、どうして今まで聞き取ることができなかったのだろうかと、自分の小さな耳にがっくりとする。

 

小説『千年の夜』に寄せた藤田省三の言葉にも、厳しく打たれる。

 

「人は、どうしても書かねばならないことだけを、書かなければなりません」とカフカは若い友人に向って言ったことがあるそうです。(ヤノーホ『カフカとの対話』)

 まことに残念ながら今日の日本人の中では、学者にしろ作家にしろジャーナリストにしろ、殆ど全ての物書きが「どうしても書かねばならぬこと」を持っていない。そしてそのくせに「多産」である。血色よく死んでいる社会の分かはそういう物なのかもしれない。

 三章から成る此の小説は、「どうしても書かねばならぬこと」を確かに持っている人が「そのことだけを書いた」本である。特に第一章と第三章は寸分の余地なくそのことを証し立てている、と思う。沙漠の中の一粒の砂金。

 

この一冊を読むだけでも、森崎さんが簾内さんとの対話を熱望したわけもよくわかるような気がする。

 

日本社会を呪縛するムラ共同体の彼方へと西南の地から彷徨いの旅に出た森崎さんが出会った、東北の彷徨い人。

彷徨いの絆。唯一信ずるに値する「絆」。

 

 

 

 

 

國分功一郎『中動態の世界』  メモ

なぜ「中動態」の本を読むのかと言えば、

「私」という「一人称」を森崎和江の問いがずっと、私の胸の奥深いところに刺さっているから。

 

妊娠出産をとおして思想的辺境を生きました。何よりもまず、一人称の不完全さと独善に苦しみました。(中略) ことばという文明の機能に重大な何かが欠け落ちている。それをどうにかしないと、私は生きられない、と、そう思いました。

 

一人称の不完全さと独善。by 森崎和江

 

「中動態」の世界を知ることは、

私たちが意識せずにそれを使って生きている<能動態>と<受動態>とが対立するものとして構成されている言語体系が、実はけっして普遍的ではないことを知ること。

森崎さん的に言えば、生きとし生けるすべての命にとって、不完全で独善的な一人称と結びついた言語体系を超える試み。

 

能動態⇔受動態を基本とする言語体系で構成される世界の、<外部>に思いを馳せてみること。

 

いったい、それはどんな世界なのか?

 

以下、『中動態の世界』からの抜き書き。

 

★もともとは、能動態と対立していたのは、中動態だった。

(受動態は、中動態から派生した。)

 

そして、能動態⇔受動態の世界と、能動態⇔中動態の世界は、まったく別物なのだということ。これが大事。

 

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がそのとなるような過程を示している。(パンヴェニストによる定義 1966) p81

※出来事の「主体」ではなく、出来事の「座」というありかた。ここが大事。

 ここが、何よりも私の興味を惹く。

 

能動と受動の対立においては、する」かされるかが問題になる。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか、内にあるかが問題になる。(國分功一郎 p88)

 

◆パンヴェニストがあげる<能動態の例>

①「曲げる」「与える」  

  主体から発して、主体の外で完遂する過程

②「食べる」「飲む」   

  食べたり飲んだりしたものは、主語が占めている場所とは別のところに消える。

③「行く」「吹く」「流れる」

  その指し示す動作は、聞き手のあずかり知らぬところに及ぶ。動作が主語の占めている場所の外で完結。

④ 「生きる」「在る」  これについては、後述。

 

◆<中動態の例>

①「できあがる」 

  ものが出来上がる時、そのものは生成の過程にある。

②「欲する」「惚れ込む」「畏敬の念を抱く」

  誰かが何かを欲するのは、心の中から湧きおこる欲望ゆえのことであり、この欲望に突き動かされる過程の中に主語はある。 

③「希望する」

  人は希望しようと思って希望するのではない。不確かである未来に、しかも期待せざるをえないとき、主体をそのとして希望するという過程が発生する。

 

 

※しかし、一見、中動態に分類されそうな「生きる」「在る」も能動態。 

 なぜこれが能動態なのか?

「在る」(存在する)は、インド=ヨーロッパ語では、「行く」や「流れる」と同様、主体の関与が必要とされない過程なのである。(パンヴェニスト)

 

中動態と対立するところの能動態においては――こう言ってよければ――主体は蔑ろにされている。

「能動性」とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している。インド=ヨーロッパ語では、「存在する」も「生きる」も「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」だったと考えられるのである。(國分功一郎) p91 

 

能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。(中略) かつて存在した能動態と中動態の対立は「する」と「される」の対立とは異なった位相にある (中略) 

 そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

國分功一郎 p97)

 

「主体」が蔑ろにされている世界。あるいは、いたずらに「主体」が際立っていない世界。「意志」が問われない世界。出来事の一つの結節点(座)として主体が存在する世界。

 

ここから見える世界観は、実に興味深い。

 

さらにデリダを引用して、國分功一郎はこうも言う。

  おそらく哲学は、このような中動態、

  すなわちある種の非ー他動詞性をまず能動態と受動態へと振り分け、

  それを抑圧することで自らを構成したのである。

 

デリダは態をめぐる言語の変化が、哲学そのものと内在的に結びついている可能性に言及している。すなわち、言語と思考とが関係する可能性、中動態の抑圧がいまに至る哲学の起源にあるという可能性に言及している。

(中略)

 おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。

 

さて國分功一郎が中動態をめぐって語るところでは、

私たちの知る<能動態⇔受動態>という概念の中枢には動詞がある。

ところが動詞は言語の中にずいぶんと遅れて登場したのだという。

そして、動詞はもともと行為者を指示していなかった。(ここ、大事 p170

 

たとえば、it rains       というような非人称構文こそが、動詞の最古の形態を伝える。

「動詞の諸形態は行為や状態を主語に結びつけるもの」という現在の考え方は、けっして普遍でもなんでもないということ。「私」に「一人称」という名称が与えられているからといって、人称が「私」から始まったわけではない。「私」(一人称)が「あなた」(二人称)へと向かい、さらにそこから、不在の者(三人称)へと広がっていくイメージはこの名称がもたらした誤解である。 

 

★言語は、出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語へと移り変わってきた。

能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでもいうべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち私に帰属するものとして記述する。やや大袈裟に、出来事を私有化すると言ってもよい。「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ「この行為は誰の者か?」と問う。

 ならば次のように言えよう。中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現われたのは、単に行為者を確定するだけではない。行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだと。出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行――そのような流れを一つの大きな変化の歴史として考えてみることができる。 p176

 

 一方、「出来事」を中心に考えるのならば、

出来事は能動的でも受動的でもない。

出来事に先立って、主語はない。

出来事こそが言語を可能にする。

そして、その出来事を最初に名指すのが動詞である。

(そして、その動詞とは、そもそもは能動でも受動でもなく、中動だったのだろう。主体は出来事の内にあるのだから。)

 

これは能動態と受動態に支配された言語を疑った哲学者のひとりであるドゥルーズの思考を、國分功一郎が簡潔な言葉でまとめているもの。

(ほかにもハイデッガーアレントについて國分功一郎は触れている)

 

そして、中動態を考えるにあたって最重要なのが、スピノザ。なぜなら、スピノザの構想する世界は中動態だけがある世界だから。

 

①あらゆるものは神の一部であり、また神の内にある。

 

②神とはこの宇宙、あるいは自然そのものに他ならない。「神即自然」。

 神すなわち自然という実体がさまざまな性質や形態を帯びることで個物が現われる。

 神すなわち万物の原因である。

 

つまり

★ 神に他動詞はない。

  (神が何事かを働きかける他者はこの世界には存在しない。)

 

★ 神に受動はありえない。

  (神には外側はない。外側がない以上、神に影響や刺激を与えるものはない)

 

★ 完全に能動たりうるのは神のみである。

 

★ 神という唯一の「実体」の変状の結果としての「様態/個物」がある。

  (人も石ころも樹木も神の態様の一つ)

 

★ 個物は互いに影響し合い、刺激し合い、変状する。

  だが、そこには、私たちの知る<能動―受動>の関係性はない。

スピノザの考える因果性、中動態において捉えられた因果性の概念においては、原因は結果において自らを表現するのだった。ならば、われわれが自閉的・内向的と呼んだ中動態的な変状の過程も、この因果性によって説明できるはずだ。すなわち、この因果性の概念によるならば、欲望の結果として現れる行為や思考は、その原因である力としての本質を本質を表現していることになる。

 

(中略)

 われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。

 

(中略)

 

 一般には能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。

 

そして、中動態の世界における<能動>と<受動>を、スピノザの哲学ではこう言い換えられている。

 

<自由>と<強制>

「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」

「強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するように他から決定されていることを言う」

 

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さて、

私が「中動態」の世界を想う時、

そこには「語り」の世界がある。

「声」が開く場がある。

「場」の声としての「語り」がある。

脈々とつらなる命の世界の声としての「語り」がある。

能動と受動、所有の一人称、支配の一人称が起動する世界に「穴」をあける声としての「語り」がある。

 

中動態。

キイワードは「出来事」。

支配と強制からの自由。

 

キリスト教を踏まえつつ、神すなわち自然という世界観から語られる、

その意味では、すべての存在が、この世界という「出来事」を織りなし、脈々ととながっている、スピノザ的世界とその「中動態」は、ストンとおちてくる。

出来事の世界に生きる者にとっての「自由」。それもストンとおちてくる。

それは私的所有をする者、支配をする者の自由とは異なる。

支配される者の奴隷の自由とも異なる。

ましてや、新自由主義の自由などでもない。

命がその本質を表現しうること。

つまりは、命が命として尊ばれること、「自由」な命のありようを基本とすること。

 

われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。

國分功一郎  p263)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンヤミン「新しい天使」    メモ

――これから進む道のための書き抜き――

 

瓦礫

 

「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれていて、その姿は、じっと見つめている何かから今にも遠ざかろうとしているかのようだ。その眼はかっと開き、口は開いていて、翼は広げられている。歴史の天使は、このような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へ向けている。私たちには出来事の連鎖が見えるところに、彼はひたすら破局だけを見るのだ。その破局は、瓦礫の上に瓦礫をひっきりなしに積み重ね、それを彼の足元に投げつけている。彼はきっと、なろうことならそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。だが、楽園からは嵐が吹きつけていて、その風が彼の翼に孕まれている。しかも、嵐のあまりの激しさに、天使はもう翼を閉じることができない。この嵐が 彼を、彼が背を向けている未来へと抗いがたく追い立てていき、そのあいだにも彼の眼の前では、瓦礫が積み上がって天にも届かんばかりだ。私たちが進歩と呼んでいるのは、この嵐である。 (ベンヤミン「歴史の概念について」)

 

 

天使の儚い歌

タルムードの伝説によるなら、天使たちは瞬間ごとに無数の群れとして新たに創造され、神の前で讃歌を歌い終えると、静まって無の中へと消え去ってしまうのだ。

ベンヤミン

 

 

記憶する言葉

人類を世界戦争の破局へと駆り立てる「進歩」の「嵐」に必死で抗いながら、過去へ眼差しを向け、破局としての歴史を凝視する「歴史に天使」。この天使は瓦礫を拾い上げながら、名もなき死者たちの一人ひとりを、またこの死者たちが経験した出来事の一つひとつを、それ自身の名で呼び出し、その記憶を呼び覚まそうとする。しかも、そのような天使の身振りは、言語そのものを、名を呼ぶことから捉え返すベンヤミン言語哲学の核心を具現させてもいるのだ。 

 

中略

 

ベンヤミンは『パサージュ論』のための草稿のなかで、「歴史を書く」とは既成の支配的な歴史を破壊する仕方で「歴史を引用することである」と述べている。それによって一つの「像」のうちに死者の生きた出来事が、まさに生きられた出来事として呼び出されるのである。

 

中略

 

そのためにはまず、記憶する言葉、すなわちベンヤミンが「像」と呼ぶ、生きられた出来事がまさにそこに甦ってくる媒体としての言語を取り戻さなければならないはずである。そのような言葉は、ベンヤミンが語る天使の歌にもむすびつけられうる仕方で歌う言葉、日常言語にとって破壊的ですらあるような強度をもって語られる詩的な言葉でありうるだろう。

 

中略

 

詩的な言語が抑圧され続けるなかに生きることが、今や新たな戦争を続けている権力の「道具」になることと結びつきつつあるとするならば、「抑圧された者たち」、すなわち「数」として死ぬことを強いられたうえに「歴史」によって忘却されてきた死者たちの一人ひとりに応える記憶の媒体となりうる言葉を語る可能性を、またそれを受け止める文化の可能性を、今ここに切り開こうと試みるべきではないだろか。

        (『忘却の記憶 広島』所収 柿木伸之「記憶する言葉へ」より)

 

 

マンデリシターム 詩

詩――それは時間の地層の深部、その黒土が地表に現われるよう、時間を掘り起こす鋤である。