信徳丸(俊徳丸)  瞽女唄 説経祭文 江州音頭  メモ

説経祭文「信徳丸一代記」の写本(これを「長野本」とする)とされているものが、『日本庶民生活史料集成』17巻に収められている。

 

◆この写本には、「長野市新田町九拾弐番地内三番」「明治廿一年三月廿八日 新田村藤田三義用」「たかだよこまち」「このしまいは、せつきようさいもん拾弐段しまい」という書き込みがある。

◆各段に「せつきょうさいもん」とあるが、裏表紙に「信徳丸くどきぶし」とある。

◆この「長野本」は瞽女唄との深いつながりを指摘されている。

 

ところが、

6代目(幕末頃)からその本拠地が多摩の農村地帯に移った説経祭文の太夫たちが所有していた「信徳丸」写本は、ただ一冊。

10代目内田総淑の「信徳丸一代記 善兵衛住家 祈り釘の段」(これを「十代本」とする)のみである。

 

一方、「長野本」には、「十代本」にあたる部分は存在しない。

 

つまり、明治期以降、多摩の説経祭文の太夫たちは、説経祭文「信徳丸一代記」正本の写本とされている「長野本」を演じたことは一度もない。

 

越後の瞽女は、「長野本」+「十代本」の内容を歌い語っていた。

そして、江州音頭は「長野本」の内容を歌い語っている。

  (cf 明治・大正期のSP盤、現在の江州音頭「俊徳丸」)

 

実際に、瞽女唄「信徳丸一代記」と深い関わりが推測されるのは、説経祭文ではなく、江州音頭なのである。

 

瞽女唄「信徳丸一代記」と江州音頭「俊徳丸」の結び目に、上州祭文(デロレン祭文)があることは一つの可能性として考えられる。

(そもそも、江州音頭誕生の背景に、近江での上州祭文語りの活動がある)

 

江州音頭⇔上州祭文⇔瞽女唄  江州祭文⇔上州祭文⇔説経祭文

 瞽女唄⇔説経祭文

 という流れはありうるかもしれない。  

 いずれにせよ、重要なのは、そのおおもとと推測される「江州音頭」 

 そして、「説経祭文」と「長野本」の関係は、むしろ不明と言わざるを得ない。  

 

影響関係を考える上で気になるのは、信徳丸(俊徳丸)に呪いをかける継母の名前。

◆「長野本」 おたま  「瞽女唄」 おつじ

この二つは、文楽版「信徳丸/俊徳丸」である『合邦摂州が辻」から取られている。

その意味では、つながりがある。

 

◆「江州音頭」 おすわ  「十代本」 おすわ

この二つはまったく同じ名前。

影響関係を推測するならば、やはり「江州音頭」⇒「説経祭文」ではないか。

ただし、「江州音頭 俊徳丸」に「十代本」にあたる内容が含まれているかどうかは、もう少し江州音頭を調べてみないとわからない。

ただ、江州音頭「俊徳丸」で詠まれる内容は、実際に河内の風土に根差した神とその「社(やしろ)」を知らねば作りようもないご当地ソングであることは、考えるうえでの大きなポイント。

 

◆「江州音頭」も「長野本」も「瞽女唄」も、河内の春日様(現在も元春日と呼ばれる恩智神社と推測される)において継母は俊徳丸(信徳丸)に呪いをかけ、

俊徳丸(信徳丸)は河内の天王原(現在も天王の森と呼ばれている恩智神社のすぐ近く場所)に捨てられる。

そして、河内の風土や地理を知らない瞽女たちは、おそらく「江州音頭」から伝播してきたであろう「信徳丸一代記」を歌いながらも、その冒頭で、うっかり河内のことを「足柄山の東」と歌ってしまう。

 

と、「瞽女唄 信徳丸」を江州音頭とのつながり書き連ねてはみたものの、ここまですべて推測に過ぎず、確証はない。

 

以下は、ここまで考えてきた過程で、気づいたことをメモ。

◆明治期には多摩の農村の芸能になっていた「説経祭文」には、数多のSP盤が発売されている「江州音頭」ほどの影響力はなかったことは確かと思われる。

◆多摩の説経祭文の太夫たちが残した数多くの写本のなかに占める「薩摩若太夫正本」は、ほんのわずか。太夫たちが語った「信徳丸」とは、十代本のほかは、説経ネタの「信徳丸」でも「長野本」でもなく、実は文楽の人気の外題『合邦摂州が辻』だった。

 

やはり盛んに語られた『八百屋お七』『日高川」『佐倉宗吾』といった題材も、もちろん説経ネタではない。

瞽女江州音頭の音頭取りやデロレン祭文の祭文語りたちと同様、説経祭文の太夫たちも、当時流行りのネタを盛んに語っていた、ということも忘れてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

姫路 牛頭天王総本宮 広峰神社 → 神戸 祇園社

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入口の大鳥居

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気になるのは、この看板。いきなり「国家の安泰…」ですか。牛頭天王総本宮が……。
入口から、骨抜き牛頭天王の気配が漂う。

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入口の看板  九星術のことも書かれている。
かつてここにいたのであろう陰陽師の存在が垣間見える。

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さあ、石段を登って境内へ。階段上から見下ろす。

姫路の街が見える。

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山門から境内を覗く。

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本殿前に立つ。

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本殿 左手から

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中央  正殿  

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八王子神たちが祀られている右殿の前には、年配の男性がひとり、

椅子に腰を下ろして、一生懸命に、般若心経を繰り返し唱えている。

(神仏混交の風景を、神仏分離で骨抜きされた牛頭天王本宮で、まさか見ることができるとは思わなかった。)

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本堂の裏に回る。暦神牛頭天王とある。暦を司った陰陽師、そして御師の影。

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本堂裏には、多くの祠がある。

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山王権現社 安永6年(1777)  庚申社  寛政4年(1751)

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大鬼社 享保20年(1735)       冠者殿社 19世紀初頭

                     木花咲哉姫等

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熊野権現社 慶応4年(1868)

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さらに奥へ。荒神社 吉備神社を目指す。

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奥へと登ってゆく道の両側は、廃墟。

かつて御師の家の跡。

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                 御師 家守家跡

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荒神社 素戔嗚 17世紀前半      吉備神社

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常夜燈  どちらも 天保年間

左側 荒神社脇の常夜燈は倒れて壊れたものを直した形跡がある。

蠟燭を立てる部分、笠をのせるところは木枠になっている。

もう一つの常夜燈には、御師たちの名も刻まれている。

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御師のことを伝える案内板。

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もう人は住んではいないが、建物の残っている御師屋敷跡を見る。

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奥の院から降りてきて、境内に戻る。

蛭子社 嘉永元年(1848)         蘇民将来を祀る地養社

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貞享4年(1687)

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広峰を出る。鳥居の裏の文字を見ながら。

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九星術による三碧木星のお守り

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牛頭天王は、広峰から神戸を経て京都八坂にゆく。

一夜の宿となった神戸の地が祇園社となった。

ここは、平清盛大輪田泊を築港するときに、この高台から海を眺めたという場所でもあるらしい。

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神戸 祇園社 拝殿

左側に小さく見える石碑は、日清戦争の従軍碑。

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御霊信仰

平安時代の末期、第56代清和天皇の御世、京都では疫病が流行って多くの人々が死んだり、雷が落ちたりする災害がよく起こりました。これらの原因は、災害で被害にあったり政治などで失脚した人々の祟りであり、その御霊を鎮める事によってその力を頂くと言う御霊(ごりょう)信仰がはやっていました。

京都白川 東光寺

そこで占いをし、姫路の広峰神社にまつられている素盞嗚尊(すさのおのみこと)がこれらの祟りを治めるのに力があるという事がわかりました。今の京都・八坂神社の前身、京都北白川の東光寺(後に今の八坂の地に移り『祇園感神院』と称した)に素盞嗚尊をおまつりするため、貞観11年(869)のある日、姫路から京都に向けてご分霊をお載せしたお神輿の行列が出発しました。

徳城坊阿闍梨

祇園神社のありますこの平野(ひらの)の地には、当時広峰神社と縁のある姫路の書写山円教寺で修行された徳城坊阿闍梨が住んでおり、その案内で一泊されました。地元の人々はその後もご神徳篤いのを感謝し、祠を作ったのが祇園神社の始まりとされていますので、約1150年余の歴史を持つ神社です。

雪之御所

近くには、福原京の跡と言われる『雪之御所』の碑(湊山小学校内)もあり、また平家の屋敷跡の遺跡『祇園遺跡(解説板のみ)』もあり平家ゆかりの地でもあります。又、この神輿をかいた人々も疲れを癒したでしょうか、有馬温泉と同じ泉質の『天王温泉』『湊山温泉』もあります。

 

 

伊勢 間の山 参宮街道資料館 伊勢神宮宇治橋 旧牛頭天王社

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参宮街道資料館

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 〇抜け参りをする者は、お金がなくとも、柄杓を持っていれば、食事や宿などを無料で提供する施行を受けることができた。

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■ 五十鈴川の中には蒔き銭をざるで受ける者たち。

  銭を蒔けば蒔けほど、蒔いた者の穢れが落ちる。

 

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内宮鳥居

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■伊勢河崎にて。

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■伊勢中村

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■伊勢二見

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■民話の駅 蘇民

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■ 伊勢内宮前 おかげ横丁 「宮忠」にて購入 

 「蘇民将来子孫家門」いわゆる将門注連縄

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■民話の駅 蘇民で購入

<表側> 

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<裏側>

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2月は、大阪で、東北に想いをはせて【被災物 「モノ」語り】月間!!

「それを見たひとがその経験を「想像する」ことによって完結する。(中略) 
 たったひとりが「想像したこと」が、リアス・アーク美術館の「最終形態」になる。」
(『東北の風景をきく FIELD RECORDING vol.4  特集:出来事を重ねる』
    「白地の持つ豊かさに気づく」(取材・文 山本唯人)より)
 
気仙沼 リアス・アーク美術館の常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」の中の一つに「被災物」展示があります。

たとえば、被災した「漁船」。そして、そのキャプション。

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 漁船     2012.12.1   気仙沼市唐桑町台の下

漁師だったら、自分の船は命と同じだがらねぇ。津波来るって聞いだら、まず船ば沖に出すごど考えるもの。皆そうするでば。あん時も、皆して、一斉に船出して、結局戻ったの俺だげ・・・グラスファイバーの船はダメだ。真ん中がら真っ二づにボッキリ折れで終わり。大きさ関係ないよ。結構大きい船でも同じだでば。あど、火に弱いなぁ・・・まさに火の海だったもの。昔の木造船は、意外と燃えねぇんだっけよ。

 

このキャプションに書かれている「記憶」は、漁船の持ち主のものではありません。やはり被災者である学芸員がこの漁船から読み取った「記憶」とでもいいましょうか。この漁船と向き合うことで紡がれた小さな「モノ」語りとも言えます。

とかく、型にはまった大きな記憶ばかりが語られる(あるいは、定型の記憶ばかりが求められる)なかにあって、個の記憶の物語を立ち上げること、個の声を届けること、それこそが記憶を語り伝える最良の方法の一つなのではないか。

実際、被災した「物/モノ」とともにある小さな記憶の物語、記憶の声は、その「物」を見る者の「物」にまつわる記憶を呼び起こします。忘れられていた「モノ」語りが目を覚ますのです。私たちひとりひとりには、ささやかだけど、繊細で、なにものにも代えがたい、大切な生きてきた記憶がある。そのことに気づくとき、震災で失われたもののかけがえのなさに、被災地から遠く生きる者たちの想像力が確かに届いている。

こういう形での記憶の語り継ぎ方があるのだ、想像力の結ばれ方があるのだ、震災の記憶への応答のあり方があるのだ、という発見。

たとえば、被災物の「漁船」の写真を見た者のひとりが、不意に、記憶の栓が外れたかのように、こんな「モノ」語りを語りはじめました。

立派な漁船だったんだろうね。魚をたくさん獲って大漁旗をはためかせて。

 

君はエンジン付きの立派な船を欲しがっていたね。君が暮らすザンベジ川の氾濫原。君は長い櫂を上手に操りながら、小さな丸木舟を器用に漕いでいたね。水を怖がらないのが俺たちロジの男だと。何年かに一度やってくる大水、大洪水。「Haiba mezi amagata, Litapi ziba zengata」(ハイバ メズィ アマガタ、リタピ ズィバ ゼンガタ)。「大水の時は魚がたくさん獲れるのさ」、君はそんなふうに言っていたね。ちょっと強がっていたのかもしれないけど、それは本当なんだろうな。じゃあ、ルンゴンゴウェの大洪水の時はどうなんだろう。100年に一度起こるという大洪水。丸木舟も家も村もすべてを流してしまうという大洪水。ルンゴンゴウェの大洪水であっても、君はちょっと強がって言うのかな。「Haiba mezi amagata, Litapi ziba zengata」(ハイバ メズィ アマガタ、リタピ ズィバ ゼンガタ)って。僕は君ともう一度会って、そのことを議論したいよ。

 

「モノ」語りはいきなりアフリカに飛んで、そして、それは100年に一度の大洪水ルンゴンゴウェと大切なアフリカの友人の思い出。

すると、同じくその「漁船」の写真を見ていたひとりが、生まれたばかりの「モノ」語りに曲をつけて歌いだす。

youtu.be

この歌を聴けば、歌われているのはアフリカの大洪水のことなのに、それを聴く私は気仙沼津波のことを、それにのまれた漁船のことを想う、その漁船と共に生きていた人のことを想う、思わざるをえない。

こんなふうにして、文字で、声で、「モノ」語りが増殖してゆく。

 

リアス・アーク美術館より展示の許可を得た61枚の「被災物」の写真とキャプションがあります。

61枚の「被災物」から生まれ出た、新たな「モノ」語りの数々があります。

「モノ」語りはどんどん増殖しています。

それを、気仙沼から遠く離れたところに生きる多くの人々にも見てほしい、そこに添えられているささやかだけど、かけがえのない記憶の物語を読んでほしい。

そして、「被災物」を見るうちに、思いもよらぬ「モノ」語りが生まれ出てきたならば、その大事な「モノ」語りをそっと聴かせてほしい。

 

そんな「モノ」語りの場を、大阪に開きます。

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【共に記憶を編む、生きてゆく物語を紡ぐ 

         ~記憶を受け取り、語り、伝えてゆくために~ vol 1】

 

東日本大震災「被災物」と出会う、記憶を編む

気仙沼リアスアーク美術館「被災物」と出会う 

「モノ」語りは増殖する

 

61枚の「被災物」の画像とキャプション(学芸員による「モノ」語り)、そこから増殖した「モノ」語りが、壁一面に展示されます。

「モノ」語りは展示中も、「被災物」に出会った人々によってさらに増殖してゆくことでしょう。

 

【日時と場所】

2022年2月13日(日)~26日(土)@ スペースふうら   

大阪市東成区深江北3-4-11バーンユースック1F        

 TEL&FAX:06-6972-5121    携帯:090-1223-7120
  E-mail: akipwind@gmail.com (畑章夫)

              

 

【オープニングイベント】東北の語り物/東北の想像力  その1

 2022年2月6日(日) 午後2時~

 宮沢賢治を歌う 

 奥浄瑠璃「田村三代記」を語る 

 語り&三味線: 渡部八太夫   口先案内人:姜信子

 参加費:2000円

 

 

東日本大震災 気仙沼リアス・アーク美術館 被災物「モノ」語りワークショップ】

 2022年2月19日(土) 午後2時~

「被災物」に触発された記憶の「モノ」語り 当事者と非当事者が「モノ」語りでつながる場を開く

 

口先案内人:姜信子

増殖する「モノ」語りを語る人々:芸能集団ぴよぴよ

参加費:1500円

 

【クロージングイベント】 東北の語り物/東北の想像力  その2

 2022年2月26日(土) 午後2時~      

 被災物 「モノ」語りを歌う:渡部八太夫 ケセランぱさらん

 東北・南三陸の「むかしむかし」を語る:南三陸町・入谷の語り部 きよちゃん

 『菅江真澄遊覧記』より「琵琶と磨碓(するす)」  渡部八太夫

 

参加費:2000円

<被災物「モノ」語り ワークショップ>のご案内

<被災物「モノ」語り ワークショップ>のご案内 
コロナ禍のため、延期。
 
東京・西荻窪 忘日舎にて。
2022年1月22日(土) 午後2時~
案内人 姜信子
オンライン参加:山内明美吉里吉里語を話してくれるはず)
音曲参加:渡部八太夫
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山内明美さんとの往復書簡『忘却の野に春を想う』からスピンアウトしてきた企画です。
気仙沼のリアス・アーク美術館には「東日本大震災の記録と津波の災害史」という常設展示があります。
ここには、学芸員が被災地の泥の中から集めてきた「被災物」も展示されています。瓦礫でもゴミでもなく「被災した物=被災物」です。
「被災物」には共に生きてきた人々の記憶が宿っています。
リアスアークの学芸員は、なんと驚いたことに、一つ一つの被災物の記憶をキャプションとしてつけたのです。もちろん、学芸員自身の記憶ではありません。「被災物」が語りかけてくる声を学芸員が聞き取って書きつけた。
これ、学芸員の創作とも言えます。自身も被災者である学芸員が、他者の被災物を前にしたときに、自身の記憶の「モノ」語りがふつふつと生まれ出てきた。美術館の展示としては掟破りです。でも、ここには、知らず知らずあてがわれた型に収められてしまう私たちの記憶の物語とは異なる、個々の記憶の物語が溢れています。
さて、震災の被災者ではない者が、この「被災物」の前に立つとどうなるか?
最初は、震災の記憶に応答しようと思いました。でも、それは至難のことでした。
じっと被災物を見つめてみました。
自身の「モノ」にまつわる記憶がよみがえってきました。封じられていた記憶の蓋が開いたようでした。
どうしたことか、「被災物」を前にした者たちは、次々と自身の記憶の物語を語ったり、歌ったり、踊ったりしはじめたのです。
試行錯誤中のワークショップに参加した大阪在住のある方は、こんなことを言いました。
「私も被災物の写真を見て何が浮かんでくるかを試しました。そうすると、被災物が語りかけてくると同時に自らの記憶が蘇ってくるのです。被災物と自分の記憶が交差した瞬間でした。モノには歴史がある。それを囲む人びとがいる。手がある顔がある。時間と空間の集積がある。当たり前のことですが、そう言うことの気づきでもありました」

なるほど、これが、気仙沼リアス・アーク美術館の「被災物」の物語への応答なのでした。

「被災」「復興」というような大きなくくりの中に配置されてゆく記憶ではなく、個々の暮らしの日々の襞から立ち上がってくるひとりひとりの「モノ」語り。

この「モノ」語りがどこに向かってゆくのかは、いまはまだ確たることは言えないのですが、あなたも試しに「被災物」の前に立ってみませんか?

申込は ↓ のサイトで。

https://mono-gatari-workshop.peatix.com/

 

 

 

 

 

 

シンボルスカ 詩 「舞踏会」  土着のこだまの他には 音節で語ることのできるこだまがない以上……

舞踏会 シンボルスカ 訳:沼野充善

 

まだ何も確かなことが分からない以上
(届いてくるべき合図もまだないのだから)
 
まだ地球が今のところ
近くや遠くの惑星とは違ったものである以上
 
地球とは別の 風に名誉を与えられた草も
栄光を授かった木々も
地球の動物のようにしっかりと存在を根拠づけられた動物も
まだ影も形もない以上
 
土着のこだまの他には
音節で語ることのできるこだまがない以上
 
より優れているにせよ、劣っているにせよ
どこかで新たなモーツァルトたち、プラトンたち、エジソンたちが
現れたなどとはまったく聞かない以上
 
 
私たちの犯す犯罪が
お互いの間だけで競い合っている以上
 
私たちの思いやりが
当分はまだ何にも似ていなくて
その不完全なところさえ比類ないものである以上
 
錯覚だらけの私たちの頭だけが
錯覚だらけの頭として通用する以上
 
これまで通り私たちの口蓋だけから
天蓋にも届くような大きな声が舞い上がる以上――
 
私たちはこの地区の消防署の
珍しい来賓としてふるまい
地元の楽団の拍子にあわせて踊ろう
そしてこれこそは舞踏会の中でも
最高の舞踏会だと思えるといい。
 
他の人のことは分からないけれど、私には
幸せになるにも、不幸せになるにもこれで十分。
 
ここはひっそりした片田舎
星たちがお休みなさいと言い
こちらに向かって特に意味もなく
ウィンクする。