『女と刀』抜き書き

 

【序章】

わたしは、血はひとつというそのながれを切ることで、その体制(まとまり)とながれからは傍系(わき)を生きようとも、また楽隠居という座を永遠に失ふ業ふかき女と言われようとも、こうすることでわたしはわたしの世というものを生きてみたかったのである。

 

※キヲ80歳。70歳で、50年を対話なきままともに暮らした夫兵衛門と離婚。

「刀ひとふりの重さもない男よ」という言葉と共に。

その50年は、血との、家との、体制(まとまり)との闘い。それらに寄りかかって生きる者どもとの闘い。

 

 

【第一章 生い立ち】

わたしには、わたしの十年のいくさというものがある。

 

国を広げようとなされた西郷殿の、おこころざしを汲みうる度量をもたなかった「日本」と戦ったのだという、このわたしの信念は、おそらく死ぬまで変わりますまい。

 

(もし、あのときの「日本」が西郷殿の「いま朝鮮を討っておかぬと、やがての日本の将来は、手足をもがれただるま同様になる」と申されたあのお言葉を受けいれていたとしたら、こんにちの日本が、このようなざまもない敗けいくさなどするはずがなかったろうと)

 

たとえ愚かしくとも、わたしはその考えを曲げることはできぬ。

 

野にある権領司という郷士の「鋼」の精神

 

※男にとってはうわべだけでも口先だけでも「鋼」と言っておれば生きていける、そんな世にあって、心に鋼を打ち込んで生きるとはどういうことか。

女が鋼を打ち込んだ心で生きようとすれば、そのすべてがこの世の体制への抗いになるということを照らしだす人生がキヲを待っている。

 

【第二章】

その「鋼」とは、生きていくうえにおいて、決定的な場にのぞむというそのことが起きた場合、わたしというこの女の性根をどう据えるか、ということである。

 それゆえ「郷士」の娘というこの熱い血で灼かれ、氷の「あらがね」で研がれてきたわたしの誇りは、「ひとふりの刀」となって胸三寸にのみこんで生きてきた。

 

 

【第三章】

血の精粋とは、血の憎悪に徹することである

 

キヲに向けた初女の言葉:

「そのむかしから島津の殿さまに公役にかりだされた百姓の衆は『月三十五日の苦役』と泣いた。わたしら郷士は泣いた百姓のその涙の上にすわってきた。この百姓やザイの衆の最も身近にいたわたしらが、おのれの身を保つには、士族同士の意志を固めるというそれは『血固め』以外のものはなかったのじゃ。(中略)血は血を増し、その血が百姓・ザイの衆を押えるには、士族という純粋の血の量の多いことがのぞまれた。それはまた、『郷』というものの『まとまり』でもあったのじゃ。その『まとまり』のなかで、おのれの分というものをわきまえて生きるということはやさしか。いかに士族のみちは厳しいとされても、その『まとまり』を出たところで、おのれの血をまっとうして生きるものよりやさしか。キヲよ、どのような厳しい『まとまり』でものう、その『まとまり』のなかにおれば、その『まとまり』に人間よりかかって生きられるということもある。士族のよりかかりは『身分」じゃ。わたしの言いたいのは、よりかかりで立っている血のあまさのことじゃ。よりかかりのところでの血の精粋など、それは嘘のケッチョンじゃとおもうがの。わたしの血の精粋とは、その血のあまさを憎悪(にくしみ)ぬくことじゃよ。」

 

 

父が意見したその「家の掟」とは、「まとまり」の掟にほかならぬ

おのれの血を汚してはならぬという、このわたしの意向を二度もむざむざとのみこんだ、血の「まとまり」という怖るべきこの川の流れ。それはまた、「血固め」のためには、おのれの血をまず汚さねばならぬという、その矛盾に満ちたものでもあったのだ。

 

※ 男を中心に置いて作られた「家の掟」「まとまり」の掟、「血固め」とは、すべて女にとっては矛盾でしかないということ。その矛盾を生きねばならぬということの気づき。そのことに気づいてはならぬ、気づいてものみこまねばならぬ、それが「まとまり」。当然、そこには対話はない。みなが同じ想像力、同じ価値観、同じ言葉を持って生きることを前提としているから。

 

厳然としていた「家」というものにおける家長制なるものがすぐにみえるものに、それは家族のまどいの中心となる、いろりの構造があった。

 家長の座する「横座」、そして客座、妻の座する「ちぇねん座」という体制がそれぞれの存在を決めていたのである。

 

※体制への抗い。それが「家」にひびを入れる、キヲさえいなければ、すべてがうまくいくという「家」に寄りかかる者たちの声を呼びだす。「家」は「横座」に寄りかかる者たちの想像力でまわっている。

 

【第四章】

刀ひとふりのため、いくつかの権力が倒され、そしてまたいくつかの権力が生まれた。それゆえ、これまで刀は世の仕置きにたずさわる男たちのみに、その所有は許されてきた。

――権力と刀。これは表裏一体をなしていることで、「刀」と存在する――

 つまり、刀は権力の「しるし」とさえ言える。

――おのれの意向をうちたてるため、いやさらに言うならば、「権力」というものを、おのれの手に握らねばならぬとしている人間の、その理念こそが、このひとふりとしてある。

 

――権力のしるしである、このひとふりこそ、おのれの意向をたてねばならぬと生きるわたしの肌が、向きあえる唯一のものである。

 

よりかかりの精神ではなく、また生きる支えとしてではなく、あくまでもわたしの意向を通すというこの理念と向き合う相手として、この刀をわたしはおのれのものとしたいのである。

 

アメリカとの戦争は)わたしのいくさではない

西郷殿の征韓論をききいれる度量をもたなかった、あのおりの「日本」の不始末がただいまこのようなかたちで表明されたのだ

 

日本が無条件降伏したということは、日本が国としての「国のこころ」まで、勝った相手側にゆだねてしまうということなのだろうか。

 さすれば、日本の国は骨の髄まで勝った相手側の奴隷となることである。

 

いかに異国の衆どもが『戦勝国の支配者』として、この地を踏みならそうとも、わたしもそしておまえも、異国の衆どもにあずけてしまってはならぬものがある。それは侵されるがゆえに屈従するという骨なしの時を、おのれのなかに刻んではならぬということ

 

 

人間生きていくということでのいくさのおわった例はない。ことに女は死ぬまで「家」というものがもたらす「きまり」とのいくさじゃ。

 

わたしの孤独もまた――いついかなる場合においても「血」は破ってはならぬ、ながしてはならぬとしているこの日本の体制というくせものに、たえず向ける刃であらねばならぬ――ということなのである。

 

このあといくたび生まれ変わろうとも、わたしがねがうのは女じゃ。

女とうまれたがゆえに、これまで担ってきたこの苛酷なる栄光。

それは、わたしのものである。

 

もしわたしにこの八十年の間、なにがしあわせであったか――ときかれたら、なにがしあわせであったかなどという問答を繰り返すまえに、まず、女と生まれたこと自体がしあわせであったと答えるだろう。

どだい、人のしあわせとは「識る」という歓びに基ったものから湧くものであろうと、わたしは思うゆえ――女のむなしさを識り、女の肌の重みを識った――というそれの意味にほかならない。

 

 

鹿児島の郷士(外城の士族)の娘の「十年のいくさ(西南戦争)」を原点とする、この世との闘い。

 

郷士たちが見下していた庶民にとっての「西南の役西南戦争)」を眼差すその目で日本近代を眺め渡し、水俣を足場に「もうひとつの世」を立ち上げようとする石牟礼道子の闘い。

 

キヲが闘った対話なき「体制(まとまり)」に、朝鮮からの引き揚げ後にはじめて出会い、「体制(村共同体)」を超え、近代を超える思想と言葉を終生追いつづけた森崎和江の闘い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森崎和江さん追悼  ~他者を孕み孕まれ生きてゆく~ (熊本日日新聞掲載)

 初めて森崎さんと出会ったのは2000年代の初め、私が旧ソ連に生きる高麗人を訪ねて中央アジアへと向かった頃のことです。高麗人とは、朝鮮半島からロシア極東へと流れゆき、さらにスターリンによって中央アジアへと追放された人々。植民地と戦争と無数の死で形作られてきたこの近代世界の周縁を彷徨いつづけてきた者たち、とも言えましょう。あの頃、近代世界の周縁へと、分断され打ち捨てられ見えなくされている領域へと、私もまた彷徨いの旅を重ねていました。この世の多くの命にとっては無惨でしかないこの近代を突き破り、生きてゆく言葉を闇雲に探していたのです。そして森崎さんは、彷徨う私にとって、夜空の北極星のような孤高の導きの星なのでした。

 初めて会ったその日、宗像の海辺を共に歩き、鐘崎の海女の話を聞きました。海女にちなんでいただいた本、『海路残照』は、人魚の肉を食べたために不老不死となった八百比丘尼の伝説を追って玄界灘から日本海沿いに北上し、津軽を経て松前までの旅を綴ったものでした。それは、国家神道の神々によって追放された、名もなき風土の神々を訪ねゆく旅の書であり、なにより近代国家のナショナリズムと深く結びついた「死の思想」を振り捨て、「生の思想」への道を拓かんとする必死の思いに突き動かされた彷徨の書でもありました。でも、二十年前の私は、そのことを森崎さんと語り合えるだけのものを持っていなかった。

 逆に私が森崎さんにしきりに尋ねたのは、森崎さんの生まれ育った地、朝鮮のこと。植民者の子として森崎さんが骨身に刻んだ朝鮮への原罪意識に私は圧倒されるばかりだったのですが、今思えば、もっと大切なことがあったのでした。

 なんとも恐ろしいことに、森崎さんのたどった道を追いかけるように旅をして、ようやくのことで、かつて森崎さんとやりとりしたことの意味が分かるんです、長い彷徨いのすえに、森崎さんの「旅」と「生の思想」と「朝鮮」が私の中で一つに結ばれたとき、アナキスト森崎和江が出現したんです、そのことを森崎さんと語り合いたかった、森崎さんが倒れて言葉を失う前に……。

 かつて、朝鮮にとっては他者であり異物であるはずの日本人の子、森崎和江の命を愛おしんだ朝鮮の女たちがおりました。森崎和江はまるで朝鮮に孕まれたかのようでした。それはもう強烈な原体験です。やがて自分自身が新しい命を宿した時、森崎さんは身体感覚で「生の思想」をつかみとるんですね。そもそも命とはすべて他者として到来するのだ、命とはすべて「私」に孕まれる「他者」として始まるのだ、とすれば、自他の峻別を基本とする近代国家の言葉で、いったいどうして他者を孕んだ私の物語を語ることができようか、と。

 生きてつながってゆく命には、国家を超える新たな言葉、新たな思想。今そう語る私は、森崎和江に孕まれた他者であり、他者森崎和江を孕んで生きる私でもあります。「生の思想」を紡ぎながら生きること、それが私にとっての森崎和江追悼なのです。

『闘いとエロス』 メモ

 わたしの感覚の創造主である朝鮮の群衆と山河がほうふつと浮かぶ。わたしの心が激しく首をふる。あれをほろぼしてはならぬ、という。あれをにほんで使え、という。

 どこで使うね…… 朝鮮は岩なのだ。

 

 

室井腎(谷川雁)とその地元から来た青年たちの水俣方言の会話、閉じた共同体の閉じた笑顔。

 

 にほんのどこの方言とも自分が緊密でないことは、わたしを二重に孤独にしていた。定着の場のない思いと、この定着しがたいにほんの外に固定している思いである。

 嘔吐がつきあげた。

(中略)

朝鮮は固かった、と思う。農民といえどあんなふうに決して歯を見せなかった、と思う。それは侵入者への抵抗であるといまは知っているけれども、幼時からそれしか知らぬわたしには、その対決のまなざしが母の教えのように信頼される。あれでなければならぬ、と思う。朝鮮は固かった。あの民族の美しさはその岩にある。わたしはこれからの生涯を、大きすぎるズロースみたいなこの追従の笑いにかこまれて生きるのか。それを愛しようとするのか……

 

絶望。これもまた森崎和江の原点。

 

密かな、しかし揺るがぬ抵抗の精神。岩。これも原点。

 

朝鮮のうちなる朝鮮、あのきり立つように冷ややかであったプライドと、わたしはいっしょにやりたいと思う。

 

「見とおしがたたないものだから朝鮮語をやっています」

 

「あたしね、朝鮮を探してきます。きっとそうするから、そのとき、具体的なことあなたもいっしょに考えてもらいたい……」

 

 

この対話は、室井腎(=谷川雁)との間では成り立たない。

男の想像力、そして、それによって形づくられた共同体のなかでは、成り立たない。

 

わたしらは対話ができがたくなっていた。話法を探さねばならない。

 

サークル村、大正行動隊と、新たな開かれた共同体(コミューン)を目指して立ち上げられたはずの運動が、どうして閉鎖的な共同体へと向かっていくのか?

 

反権力集団の体質が、国家原理と類似しがちなのはなぜなのか?

 

あたしは日本の社会構造っていうか、それによる民衆の精神構造っていうのか、人間たちと自然とがかみあって作りあげた総合的な構造に或る限界があって、その内的な欠陥が侵略という形に同調して現われるほかなかったんじゃないかと考えるんです。そして炭坑で闘争を経験して、にほんの組織とか集団の質を知って、やっぱりそうだという気持が深いんです。そこをきちんと論理化して、そして具体化させたい。まだ感じだけしかいえないんです。にほんの意識構造は自己集団内的には矛盾の解決法も生み出せるけど、異った原理との接触の思想をもってない。 P310 

 

エロス

けれども、その組織づくりは、千の万の少女の死臭と歩く。千の万の、夜を歩く。わたしが死に果て、わたしのあとのわたしが果てて、たくさんの男らの、血を吸い、その死骸をあたためながら歩かねばならない。わたしらの組織は一人の少女を強姦し殺した。

 

こうして『闘いとエロス』の中の森崎和江の言葉をたどるのは、

わたし自身があの日、森崎さんから投げかけられた問いになんとか応答したいと思っているからなのだ。

 

ここで語られているエロスには、死の匂いしかない。

 

 

 

 

 

森崎和江 自意識 メモ

即自的な私はコスモポリティクな流亡の徒であって、定着する日本の共同体意識のどのランクにも入りこめない。強いていえば遊芸売笑の賤しさで民衆のエキスを伝播して歩く遊行女婦(うかれめ)グループの心情を伝承している。

 

大海にほうりすてられ、青天にあそぶ砂のひとつぶである。私は自己に忠実であろうとした。自己を律する鉄則を自己の内面に見る。そのようにして私は生存の原論理と歴史の必然とを拮抗させようとしてきた。のがれるすべはない。私がずいぶんまわり道してアジアを自分のなかにみたようなものだった。

(「非所有の所有」)

森崎和江「わたしと言葉」 「祖母たちのくすり」メモ

 

女の人は、というか、わたし自身が女ですから、女の意識とか感性とかの中には、書き言葉によって自分を認識するということよりも、話し言葉によって自分や世の中を感じ取ったあとが残っています。またひとりひとりの女は、わたしが自分のからだの変化を想像の世界に取入れかねたように、それがずっと永い間経って、やっと自分の中に定着する。永い間とはどういうどういう永さかと言いますと、男を知って、その他人を自分の中に取入れて、子をはらみ、胎内の他人とも自分ともつかぬものを外に出して、そして、ひとりの「わたし」というものが完成する。(中略)

 それは完成というよりも、言葉のカオスです。そういうふうに、他者を内側に取入れてようやく完成してきている感じ。(中略)あるいはわたしは朝鮮で育ちましたけれど、朝鮮の風物、朝鮮の人々、そういうたくさんの不特定な人々や物たちの存在が、わたしに電波のように這入り込んでくることもふくみます。わたしの言葉の世界というのか、わたし自身というものは、そういう這入り込んで来た他者たちが熟してきたというのかな、(後略)

 

 

これは、「女」というくくりで理解する言葉ではなく、そもそもこの世界において「他者」とされてきた者が発する言葉として受け取りたい。

 

女は書き言葉の世界に這入って行ってみると、その書き言葉に込められている概念とか、それにくっついている社会的通念とか、感性とか、そういうものにひっかかります。わたしなどは、それらを全部ばらばらにして、それぞれ音楽みたいなものにもどして、それを自分の心身の感応にちかいものに組み直さなければ、自分の言葉にならないんですね。

わたしは永いこと外側にあるいろんな言葉を借りて、自分と言葉、あるいは、自分が日本で生きなければならない事実を、観念させようとしてきました。「お前さん、もうどんなに逃げ隠れても駄目だよ、このまま一生を送るんだから、日本語をちゃんと使って、みんなにまぎれこんで、正体がわからない様に生きなさい」と自分に命じ続けていました。その為には書き言葉にすがるしかなかったんです。

 

標準語世界=近代世界からの、言葉の破壊と創造による脱出の企みの出発点。

 

村共同体が共同体として昔と同じ形ではない様に、わたしは流れ者ですなんてさっき言いましたけれども、流れ者が流れ者としての伝統を生かすすべも昔のままではなくなっています。ですから、生まれた村に住めなくて、よその村から村へと流れ歩いた人々にわたしは付いて回ってますけど、その人たちが切り開いた媒介者の伝統を、これからのわたし達のつながり方みたいなもののなかに生かしたいなと、

以上「わたしと言葉」

 

かつて村々は、悪霊や疫病が村へ入ってこぬように、そして豊作が村を訪れるよう、さえの神さんを峠や村境に祀ったのだという。ところでそのさえの神のそのむこうから、よその地方の産物を運んでくる人びとがいた。そのような人をとおして、他国の話が村につたわった。村では出稼ぎの手づるも、そのような人にたのんだ。嫁のせわをねがった。争いの解決をたのんだりした。それはささやかでも、村とそとの世界をつなぐ、くらしのなかの文化の道だった。物々交換や、花の御札というお祝儀でみせてもらう芝居や、わずかな銭で買う他国の品々。それらはどれも村びとにとっては、どこからかやってくる人によってもたらされるものだったのである。

 

媒介者としての「他者」を想う。

 

わたしは暇をみつけては村や町の祭りをのぞいたり、露店のざわめきのなかを歩いたりしている。また産土の神と土地の人びとのかかわり方を感じとろうと村里をうろついている。そのようなときに心にうかぶちいさな島がある。それは玄界灘のまんなかにぽつりと針で突いたように浮かぶ無人島で、沖ノ島とよばれた。

 

ここから、宗像三神の国神道での位置づけと、沖ノ島を「おいわずさま」と呼んで信仰する漁師たちのなかでの宗像の神との大きな隔たりを森崎和江は語りだす。

それは、香具師たちの神「神農さん」と大阪の道修町少彦名神社との関係の考察へとつながってゆく。

 

神農さんという呼び名でしたしまれ、神農祭をもつこの社が、少彦名神社と名乗るそのいわれを、社務所では、古くから合祀してあったためだと説明した。ところで、『浪華百事談』という浪華のよもやま話をつづった書に、この社のことも出ていて、神農は明治維新廃仏毀釈のあおりをうけて、その呼び名も祭日もかわったとしるしてあった。

 

いまから百二、三十年まえのこと。そのころは医師のほとんどは道の者として職人衆のなかまだった。医師と陰陽師、薫物売と薬売、一服一銭と煎じ物売、などと職人歌合にも古くからあるように、町や村を巡歴した。(中略)この巡歴の医師薬売師をこそ待ちこがれる村びとも、ふえたのである。神農を稼業のおやとするものは、さぞ多くなっていたことだろう。

 

神農と香具師のつながり。

 

森崎和江。言葉。メモ。

 私は政治的に朝鮮を侵略したのではなく、より深く侵していた。朝鮮人に愛情を持ち、その歴史の跡をたのしみ、その心情にもたれかかりつつ、幼い詩を書いて来たのである。 

 

 自然界といのちとのシンフォニーへの愛をはぐくんでくれたのが「日帝時代」の大地であったこと、また、その大地に響きわたっていた歌とリズムであったことが、つらくて、幾度となく崩れました。

 

 それでも、表現とは、自分と外界との響きあいを、ことばや音や色や形へと対象化させることだと思いつづけてきました。というより、生きることは本来そういいうものなのだと考えるようになってきました。 

(『森崎和江詩集』思潮社 あとがきより)

 

 詩とは、自然や人びととのダイアローグだと、幼い頃から思っていました。

 

 新しい境地、新しい言葉の世界、そういうものを切り拓かない限り、詩にはならない。

 

 生きていく、ということは、やはり、対話する空間を作り合うことでしょう。

 木霊のように返ってくること。響き合う力。同じ形でなくても、続いていく持続力というようなもの。(『森崎和江詩集』思潮社 インタビューより)

 

■詩ひとつ。森崎さんの。まるで遺言のような。

 

「祈り」

 

会いに行かせてね

風になって

 

きっとだよ

 

歌ってるからね

骨も

 

約束します

 

会いに行かせてね

海をこえて

 

指切りします

 

歌っていてね

泣いていても

 

みえなくってもよ

 

会いに行かせてね

歌ってるからね

 

ゆりかごの……

 

 

■そして、この詩句 

「シンボルとしての対話を拒絶する」より

(未完のはじまりの歌としてこれを聴く)

 

女の声

アナーキーな氾濫がわたしをかむ

欠如があすの詩をささやく

あなたのモノローグを裂くときに

男の声

おわっていくぼくの詩

今日の文明のおしゃべりな部分

不具なカルテルの旗よ

メモ  物語をめぐって。

 

私たちが書かない物語の運命が

どうなってしまうのか、

あなた、分かっていて?

それは敵のものになってしまうのよ。

 

(イブラーヒム・ナスラッラーアーミナの縁結びより)