『在日朝鮮人ってどんなひと?』(徐京植 平凡社)メモ01

◆「在日」の起源について考える。

 

1909年「民籍法」(戸籍の前身)公布 朝鮮人にとって初の戸籍

 

朕朝鮮教育令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁

内閣総理大臣公爵桂太郎

明治44(1911)年8月24日 勅令第二百十九号 朝鮮教育令

第一章 綱領 第一條 朝鮮ニ於ケル朝鮮人ノ教育ハ本令ニ依ル

第二條 教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス

第三條 教育ハ時勢及民度ニ適合セシムルコトヲ期スヘシ

第四條 教育ハ之ヲ大別シテ普通教育、実業教育及専門教育トス

第五條 普通教育ハ普通ノ知識技能ヲ授ケ特ニ国民タルノ性格ヲ涵養シ国語ヲ普及スルコトヲ目的トス

第六條 実業教育ハ農業、商業、工業等ニ関スル知識技能ヲ授クルコトヲ目的トス

第七條 専門教育ハ高等ノ学術技芸ヲ授クルコトヲ目的トス 

 

 

1921年初頭 臨時教育調査委員会(1919  3・1独立運動を経て)

斎藤實総督「朝鮮の教育は益文化の促進に努め一視同仁の聖旨を実現するおのたらしむることを根本となすべきである」

 

原敬「朝鮮を内地の延長と認めて同化すること」が必要と記す。

 

総督府学務課長弓削幸太郎

「東洋否世界の平和の為に朝鮮といふものを確かりと処理していかなければならない責任を有」し、朝鮮人たるの観念を薄からしめ、遂には自分は単に日本人であるという観念に充たされなければならない」

 

 

1922年 戸籍令改定 「朝鮮戸籍令」内地への転籍禁止 「朝鮮戸籍」に登録。

(日本人は「戸籍法」で内地戸籍に登録。)

 

※「血」による区別(いや、差別)に基づく「朝鮮戸籍」と「内地戸籍」ではあるが、

この差別は血だけではない。朝鮮人男性と結婚して「朝鮮戸籍」に入籍した日本人女性は、戦後の国籍処理において、朝鮮籍にあるかぎりは「朝鮮籍」(無国籍)として処理されている。

 

※1952    4/19 「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」(昭和27年4月19日付法務府民事局長通達」
→平和条約発効により、旧植民地出身者は内地の戸籍に組み入れられたものは日本国籍、旧内地出身者で朝鮮籍に組みい入れられたものは朝鮮籍に自動的に区分けされた。いずれにしろ、本人の意思による国籍選択はみとめられなかった。

 

1936年 内鮮一体

1937年 皇国臣民の誓詞

1944年 徴兵制実施

1945年 日本敗戦

    旧植民地の民は講和条約を結ぶまでは日本国籍をもつものとする。

1947年 外国人登録

    朝鮮人は「当分の間、外国人とみなす」

    ※外国人と言っても、朝鮮は米軍政下にあり、国家は存在しない。

    ※そこで外国人登録上の記号として「朝鮮」とする。

1952年 サンフランシスコ講和条約発効

    日本政府は、旧植民地出身者は日本国籍喪失を宣言。

    ※つまり、どこの国家に属さない、保護されない無国籍状態になる。

    ※一夜にして、難民となったに等しい。

 

1965年 日韓条約

    ※その結果、韓国籍取得者のみ、協定永住権を与えることになる。

 

1991年 特別永住者

第二次世界大戦終結以前に日本に居住していた旧植民地出身者(主に朝鮮・韓国人)とその子孫が、日本の国籍を離脱したにもかかわらず、日本に在留し続けるための特別な永住資格を持つ人

 

【参考】

1948 世界人権宣言

第14条 何人も、迫害からの避難を他国に求め、かつ他国でこれを享有する権利を有する

 

 

 

 

『万物の黎明』(デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ 訳:酒井隆史) メモ

『万物の黎明』(デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ 訳:酒井隆史
 人類史をくつがえす、分厚い本。2年近く手元に置いて、折にふれ、読みたいところを拾い読みしつつ、ようやく読了。
 
最初の頃に読んだことの詳細は忘れました……。
ただ、
◆西洋発の近代精神を根本から疑うべきこと。
◆普遍を謳う西洋の思想・価値観で囲い込まれ、その外の世界への想像力をきれいに奪われている自身を知ること。
◆けっして西洋には起源のない「万物の黎明」に想いを馳せること。
◆油断すると、西洋の思想、西洋の語彙で形づくられている私たちの思考(それをグレーバーたちは「単一の帝国主義的な歴史観」とも言う)は、この世界に於いて、かなり危険な代物なのだということ。
せめて、このくらいは、身に沁みいってきたような気がする。

「人類史のなかで、なにかがひどくまちがっていたとしたら、――そして現在の世界の状況を考えるならば、そうでないとみなすのはむずかしいのだが――、おそらくそのまちがいは、人びとが異なる諸形態の社会のありようを想像したり実現したりする自由を失いはじめたときにはじまったのではないか」

◆二人のデヴィッド曰く――、

たとえば、コロンブス以前のアメリカ、そこに生きていた人々は「帝国」の言葉を使えば、「未開」でも「野蛮」でも「いわゆる「自然状態」でも「獣」でもない。既に、西洋からの侵入者を驚かせた洗練された「自由」の概念を持っていた。その概念は、西洋が称揚する「近代国家」という名の閉ざされた社会とは対極の開かれた社会を実現していた。

彼らの自由の基本形態は以下の3つ
① じぶんの環境から離れたり、移動したりする自由
② 他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由
③ まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由
 
つまり、共同体の中で権威を持った人間がいやな奴なら、民はいつでもそいつを無視したり、どこかよそへと移ることができた。
そして、二人のデヴィッドは問う。

「わたしたちの大部分は、それらの自由に基盤をおく社会秩序のうちに暮らすことがどのようなものであるか、ほとんど理解できないところまできている。
 なぜそうなったのか? わたしたちはどうして閉塞してしまったのか?」

★家父長制と暴力が結びついているのは、わかっている。

★「文明」が「未開」と呼んでいる、洗練された社会に生きていた人々に、「文明」がその良き社会システムを押し付けるには、凄まじい暴力が必要だったのもわかっている。
★「文明」には、文明が「未開」と呼ぶ社会の基盤にある「遊び」がないことも分かっている。
 
最終的な問題は、いまだにグローバルな「帝国」の想像力、「帝国」の話法の囚われの民である私たち自身。
私たちは「閉塞=帝国」を超えてゆく旅人になれるだろうか。

80年前の「八重山の戦争」と現代の最新型<無感性暴力の殺戮 by イスラエル>

3か月近く寝ても覚めても取り組んできた石垣島の老師の本の校閲作業がようやく終わりました。
 

八重山の1945年』(大田静男 みすず書房)2025年7月16日予定

 
 
この本で語られているのは―――、
 明治以前、琉球王国支配下にあった八重山群島が、琉球併合後にいかにして近代化(=皇民化=軍事化)されていき、
いかにしてついには作られた戦争の熱狂にのまれていったのか、ということ、
近代の世界システムとはまた別の、中華世界システムのもとで日清両属であった琉球八重山を含む)を、近代日本はとことん信用せず、その結果、沖縄戦では琉球人=スパイが大前提であったということ、
軍は八重山沖縄戦の捨て石として使ったこと(つまり沖縄本島という捨て石の、さらに捨て石)、
そして島の民の命はどうでもよかったということ等々が、
島々の民の声、公文書、軍の資料等を駆使して、あらわにされていくのです。
 そのうえさらに、上空から攻撃する英米軍のレポートを参照することで、日本側で語られてきた戦いの物語に亀裂がはいってゆくという……。
 なんだか、これだけでも十分に恐ろしい。戦争の実相が迫ってくるようです。
 ところがね、昨夜『HAPAX』の「パレスチナ小特集」を読んでいて、考えれば当然のことだけど、戦争は素晴らしく進化していることを知るわけです。
 「無感性的暴力」と題されたイアン・アラン・ポールの論考では、イスラエルパレスチナに対する攻撃、ジェノサイドの自動化について、以下のように語っているのです。
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「数万人の情報部員が処理できなかった」膨大な量のデータを処理し、リアルタイムで爆撃場所を推奨する人工知能、その名も「ハプソラ(福音)」というシステムをイスラエル軍は使っている。
デジタル化された監視装置がパレスチナ全域に配備され、ありとあらゆるパレスチナ人の生についての莫大な量のデータが作成される。それにより「殺害される可能性のある民間人」の数が算出される。
つまり、イスラエル軍は殺戮を始める以前に、死者のすべてを計算済みであり、一般市民の死はハマス幹部殺害の巻き添えなどではけっしてない。
イスラエル軍はガザの民に避難を強いるとき、避難路に監視技術搭載の輸送コンテナを設置し、そこを通り抜けるよう命じる。イスラエルの生体認証データベースと照合して、抹殺すべき者をあぶりだすために。
すべてのガザの民は、データに基づいて計算され、算定され、殺害される。
そこには感情はない。すべては数値化され、データ化されて、感情が発生する余地などない。
その名も「無感性的暴力」
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恐ろしいね。
パレスチナで磨き上げたこのシステムをイスラエルは世界各国に輸出するわけですね。
これが最先端の戦争、そして世界の姿。

「革命」と『ユニヴァースのこども』のこととか

ここ数日の読書。
どれも、諦めることなく、息の長い「革命」を問いかける書物。
ここで言う「革命」というのは、フランス革命みたいのとは違いますよ。
 「ひとりきりであることに不安を持つのをやめた者たち」が、権力の軛を断ち切って、自分をなくすことでしか成立しない集団主義を棄て去って、自身の命をよりどころとして、誰かによって命が価値づけされることのない、生きるに値する(信頼に値する)世界をめざす、行きつ戻りつのゆるやかな変革とでも言いましょうか。
新しい地点に向かうには、新しい言葉が必要で、それもまた行きつ戻りつの中から紡がれてくるもので、その迷いに満ちた、だからこそとても豊かな試行錯誤の時間を分かち合う『ユニヴァースのこども』もまた、私にとっては息の長い「革命」の書物なのでした。
いまここで、ひそかに世界のはじまりを生きる者たちは、そのひとりひとりが、静かな「革命」を生きているのだということ。
この「革命」には集団的熱狂も暴力もありません。
それは不穏なことではなく、とても愉快なことだと私には思われます
 

 

メモ: 『帝国を壊すために ―戦争と正義をめぐるエッセイ―』(アルンダティ・ロイ著 本橋哲也訳)

この本は2003年刊行。アルンダティ・ロイはインドの作家、批評家。

これは、2001年9月11日のいわゆる「アメリカ同時多発テロ事件」以降の、「我々の側につくか、それともテロリストの味方をするか」(byジョージ・ブッシュ)というクソ単純大バカ野郎発言に象徴される、歪んだ世界の状況に対する抵抗の書。

そして、2023年10月7日以降の、恥知らずな植民主義が人目をはばかることなく跋扈するようになった世界に抗するうえでも、とても示唆に富む書。

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アルンダティ・ロイは言う。

 ジョージ・ブッシュが、「我々の側につくか、それともテロリストの味方をするか」と言うのなら、わたしたちは、「よけいなお世話」と言ってやる。世界の人々は、「悪逆ミッキーマウス」と「狂人ムッラー(イスラムの尊師)」の、どちらかを選ぶ必要なんかないことを教えてやろう。

 わたしたちの戦略、それはたんに<帝国>に立ち向かうだけでなく、それを包囲してしまうことだ。その酸素を奪うこと。恥をかかせること。馬鹿にしてやること。わたしたちの芸術、わたしたちの音楽、わたしたちの文学、わたしたちの頑固さ、わたしたちの喜び、わたしたちのすばらしさ、わたしたちのけっして諦めないしぶとさ、そして、自分自身の物語を語ることのできるわたしたちの能力でもって。わたしたちが信じるようにと洗脳されているものとは違う、わたしたち自身の物語。

 大企業による革命なんて、わたしたちがその製品を買うことを拒めば、おしまい。その発想も、それが捏造する歴史も、その戦争も、その武器も、それが信じ込ませようとする必然性だって。

 覚えておこう――わたしたちは多く、彼らは少ない。わたしたちが彼らを必要としているよりも、彼らのほうがわたしたちを必要としているのだ、ということを

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★この本は、本橋哲也さんの翻訳も素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

植民地主義者は堂々と悪事を語る、植民地主義によって繫栄した西洋近代はそれを黙認する。

鬼畜の言葉
(と言いつつ、ネタニヤフを鬼畜と呼ぶのは、鬼にも畜生類にも失礼なことだと思う)


Netanyahu fully drops the mask:
"We are demolishing more and more houses, they have nowhere to return to ... The only logical outcome would be the desire of the Gazans to emigrate abroad. Our main problem is finding countries willing to receive them," he said while speaking to Israel's Foreign Affairs and Defense Committee.
"For the first time, Netanyahu said in the committee, while referring to the humanitarian aid distribution plan in Gaza, that receiving the aid would be conditional on the Gazans who receive it not returning to the places from which they arrive at the aid distribution sites. The explanation: In the places from which they came, they are mixed with Hamas members."
(Maariv newspaper)


ネタニヤフ首相は完全に仮面を捨てた:
「我々はどんどん家を取り壊している。唯一の論理的な結果は、ガザの人々が海外移住を望むことだろう。私たちの主な問題は、彼らを受け入れてくれる国を見つけることです」と、ネタニヤフはイスラエル外交防衛委員会で発言した。
「ネタニヤフ首相は委員会で初めて、ガザでの人道支援物資配布計画に言及しながら、支援物資を受け取るには、支援物資を受け取ったガザの人々が元の場所に戻らないことが条件となると述べた。説明はこうだ: 彼らが元いた場所には、ハマスのメンバーが混じっている」。
(マーリブ紙:イスラエルタブロイド判日刊紙)

ジジェクの言うとおり。

youtu.be

ホロコーストのあとに、アドルノは、

アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」と言ったけれど、

要するに、野蛮なのは、いわゆる西洋の普遍の思想というやつでしょう。

ヨーロッパは死んだ、この死はあらかじめ西洋近代に内包されている。
植民地主義民族浄化ホロコースト、ガザのジェノサイド、世界中のあらゆる無惨な現実、これは西洋近代に内包されている、

つまりは、ジジェクはそういうことを言っている。