2012-01-01から1年間の記事一覧
私は虚無へ引きかえす 帰るべき故郷を持つもののように耐えるとは、<なにかあるもの>に耐えることではない。<なにもないこと>に耐えることだ。体験とは、一度耐えきって終るものではない。くりかえし耐え直さなければならないものだ。理解しあい、手をに…
しかしまた、歴史におけるすべての終りは必然的に新しい始まりを内含するという真理も残る。この始まりは約束であり、終りがもたらし得る唯一の<メッセージ>なのである。始まりは、それが歴史的事件になってしまわぬうちは、人間の最高の能力なのだ。政治…
<生きることの困難さ>とは、<積極的に生きることの困難さ>である。労苦や悲しみにおし流されている間は、この困難さへの認識はない。 一度でよい。立ち止まって、そして自らに問え。 私たちが、この世の出来事に深くつまづくなら、それは私たちの深い関…
石原吉郎曰く、 「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの、もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができま…
大陸からの季節風が済州島の漢拏山にぶつかると、その風下、済州島の南南東の方向へと、「カルマン渦列」という交互に並んだ渦の列ができる。それはずっと奄美大島まで伸びてくる。 それは、『薄墨色の文法』(今福龍太 岩波書店)の「唸り」の章に書かれて…
石牟礼さんが「声音」と題したエッセイでこんなことを書いている。「もう三十年くらいも前、天草下島の深海で、百歳を越えたおじいさんから話を聞いたことがある。/男たちが入営したり出征したりする“兵隊別れ”のときとか、いたいけな少年少女が島を離れて…
石牟礼道子『天湖』より。「はじめに小さな川や泉があった。風や雨があった。人がいた、心があった。声がゆき来していた。歌が出現した。互いの魂に呼びかけるために」
石牟礼道子『天湖』を読んでいる。山の神と海の神との結ばれを語り、神々の息づく世界に、神をなくした人間をふたたび迎え入れようと、その道を開こうとする物語。それにしても石牟礼さんはよく歌う。ここなるは/天の 底なる/おん旅所/浅き月をば/まねく…
8月25日、馬喰町art+eatで催される『はじまれ 犀の角問わず語り』刊行記念イベントのお知らせです。朗読したり(by浪曲師玉川奈々福姐さん)、 絵と文章の描きおろし×書きおろし(byうーの屋敷画伯×姜信子)のコラボの試みをしてみたり、 なにかがはじまる場…
レヴィ・ストロース『神話論理1』序曲より。 神話的思考は思いきって出発しようとしているのではなく、到達しようとしているのでもないので、行程全体を全うすることがない。神話的思考にはいつまでたってもまだ成し遂げねばならないことが残っている。儀礼…
神話学者ジョーゼフ・キャンベル曰く、 「私たち自身の生活の美は、生きていること自体の美しさにどの程度までかかわっているのだろうか」 「人々はよく、われわれは生きることの意味を探っていると言いますが、人間がほんとうに探求しているのは、たぶん生…
慌ただしく過ごしていたら、7月になってしまった。 5月下旬から6月末まで、怒涛のようだった。石牟礼道子さんを訪ねて、お話を伺ったのが5月の下旬。それは6月29日発行の週刊読書人に見開き2ページで掲載されている。久しぶりに石牟礼さんにお目にかかって、…
「3・11以降の〈旅〉 サウダージ・ブックスの本+α」フェア5月11日(金)〜6月10日(日) 会場 ジュンク堂書店池袋本店1階エントランス 後援:港の人「3・11以降の〈旅〉 サウダージ・ブックスの本+α」フェア記念企画トークイベント 「震え」の思想、「震…
石牟礼道子さんが1975年、48歳のときに書いた「みそぎの渚」を読む。ひたひたと静かな哀しみが胸に満ちてくる。「生きていて相逢うことのできえないなにかを、わたくしどもは持っていると思うのです。肉親とも友人たちとも、未知の魂を持った人びととも、相…
ハンセン病市民学会in青森の交流集会に参加したのを機会に、市民学会に一緒に参加した編集者(元山岳部)と共に八甲田山の山頂までロープウェイで登ってきた。本当は津軽のほうへ太宰治の匂いを嗅ぐ小旅行をしたかったのだけど、編集者氏が、ずっと八甲田山…
青森市の西のはずれにあるハンセン病療養所松丘保養園に行った。入口から園内へとのびてゆく道は桜並木。時期的に、もうほとんどが散っていたが、出遅れた桜がところどころに。 桜の下、園内の空き地には、タンポポが黄色く鮮やかに地を這うように咲く。タン…
5月1日に引っ越しをして、ばたばたと荷物の整理をして、ようやく落ち着いた。 ああああ、疲れた。もう100年くらいは引っ越ししたくない。荷物整理の合間合間に、わけあって、石牟礼道子全集を繙き、小田和正の音楽を片っ端から聴いている。 石牟礼さんの講演…
アイルランドの幻想の島、ハイ・ブラジル。波照間島の海の彼方の幻の島パイパティロマ、済州島の沖合の幻の桃源郷イオド。この世を漂う者たちが彼方に夢見る島。『群島‐世界論』(今福龍太 岩波書店)を読みながら、私にとっての「イオド」に思いを巡らす。…
ヤン・ヨンヒ監督 ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』をあらためてじっくりと観た。 冒頭の父と娘の会話。ここに済州島出身の父が背負ってきた南北分断のもとの生と、その父のもと日本で生まれ育った娘の生の、重なりつつずれゆくありようが凝縮さ…
デモクラシーって、何なんだ?この問いに、ジャック・ランシエールが、『民主主義への憎悪』(インスクリプト)で明快に答える。それは今や「行き過ぎた平等要求」の別名である、「行き過ぎた平等要求」が様々な社会的・政治的問題の原因となっている、それ…
遅ればせながら、『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(レベッカ・ソルニット 亜紀書房)を読む。原題は『A PARADISE BUILT IN HELL』。語られているのは、ざっくりとまとめれば、こんなこと。 <現代社会に生きる私たちにとっては…
わけあって、また引っ越し。この5年間に6回目の引っ越し。横浜市内を近距離移転。さすがに疲れた、と思いつつも、かなり心が弾んでいるような気がしなくもない。引っ越しは5月、懲りない引っ越しマニア、あと一月、かなりうきうき。 大澤真幸『夢より深い…
『自律への教育』(テオドール・W・アドルノ 中央公論新社)を読む。 備忘録メモ。 「われわれは皆、他人の不幸には充分耐えられるだけの強さを持っている」 ラ・ロシュフコー公爵フランソワ六世。「文化の原理をなす粗野さを恥じる心が、今日でもなお、人…
我が家に小さい人2名が遊びに来た日の夜、私の靴下ボックスに緑色の新鮮なレタスの葉が一枚しまわれていることに気づいた。彼(おそらく、ソースケ、2歳児)の目には、レタスも靴下も同類だったのだろうか。 フクシマのことを思ううちに、どんどんミナマタに…
「デルタと群島を結んで颱風のような螺旋運動を繰り返す複数の歴史。その歴史とは、死者の痕跡(トレース)のことである。現在の痕跡は、死者によって残されたものであり、それを読みとるのは生者ばかりではない。というより、生者がその痕跡を読みとるため…
横浜、鶴見、総持寺。小さい人のお供をしてお寺に参拝。小さい人は門のところで睨みをきかせる大きな仁王像はちっとも怖がらず、むしろ好きなくらいのようだが、総持寺にある日本一の大黒天(と言ってもそう大きくはない)については腰が抜けるほど怖いらし…
「プティ・ブルジョワとは<他者>を想像することができない人間のことだ。他者が自分の人生に現れれたとき、プティ・ブルジョワは眼をふさぎ、他者を無視し、否定する。さもなければ他者を自分自身へと作り変えてしまう」ロラン・バルト『神話作用』より。↑…
一歳児と過ごす午後。家遊びに飽きた一歳児を、久しぶりに、うっかり三輪車に乗せたら、この寒さだというのに、町内一周押して歩けと身振りで命じられ(頼むとかお願いするとかいう生易しいものではなく、「当然押すでしょ、えっ、押さないの?」という身振…
さあ、原稿を書こうと体まるごと書くことに集中させていく。背後にはこの歌が流れている。 http://www.youtube.com/watch?v=SPH4_DDDz8Q 切れて、つながって、生きる、よろこびと苦しみと幸福と痛みと哀しみと強さと闇と光と。
眠い。この3日間ほど、眠りが足りない。『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫 片山洋次郎)を眺める。「乳幼児が言葉を発するようになる前に、自分の持っているものを人に渡し、また受け取ろうとする時期がある。この「あげる」「もらう」という行為が、言…