2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧

無法な暴力がますます跋扈する2016年夏。今日は7月31日。都知事選投票日。痛みに耐えかねる心で、レヴィナスを読み返す。

メシアとは私のことであると言ってしまったら、確かに気狂いと言われても仕方なかろう。 でも、救済者として天から降臨するメシアを斥けるレヴィナスの意志は、心に響く。 外部からの救済の断念。 断念。 この言葉は絶望的な響きをもっているな。 でも、ここ…

 宗教意識論から見た鎌倉仏教

立論の出発点。ここのところはとても重要。 「民衆にとって、教義は二の次である。大切なことは、そうせざるをえない民衆の心情を受けとめて、そこから考えることのはずである」 「知識人でもない民衆の信仰=宗教意識の立場から、民衆の念仏の場と、念仏の…

光明真言、融通念仏、時宗、真宗仏光寺派  メモ

「一人の唱える念仏は万人に、万人の唱える念仏は一人のために」これは融通念仏(大原の良忍が宗祖の念仏信仰の一派)の考え方。 叡尊の光明真言に通じ合う。光明真言:光明真言の功徳と同信者の助け合いによる救済、その確認のために名前を過去帳に記入する…

真宗と真言宗 神仏にたいする感覚の違い。 メモ

「山岳信仰の場合、ひとは身を浄めて山に入り、木にも岩にも滝・湧き水にも礼拝する。もちろんそこに祀られている龍神の類、不動、観音、地蔵、役行者、等々(山に祀られる神仏の種類は意外に少ない)にたいしては真剣に祈りを捧げて加護を乞う。だが、その…

浄戒と穢れ メモ。

13世紀日本の仏教の風景のうちの一つ 「律僧が救癩や非人救済にたずさわるのも、浄戒をたもつゆえに冒されることがないと信じるからである」(P191) 禅僧、律僧は、斎戒を持する持斉と同じく浄戒をたもち必要な約束ごとを守るゆえに、災いを遠ざけ死のよう…

 『修験と念仏 中世信仰世界の実像』(上田さち子 平凡社 2005年)

「十二世紀初頭の他力の念仏が人間の罪業意識と無力感を深めてゆく時期に、民衆のなかでは、自力の極致ともいうべき、役行者を先駆者とする修験が姿を現しはじめていた。十二世紀には、必ずしも単に末法思想と無常観が世上を覆うた時代でも、権門寺社が民衆…

『古風土記』の巨人

「巨人が国を開いたという説話は、本来この民族共有の財産であって、神を恭敬する最初の動機、神威神力の承認もこれから出ていた。それが東方に移住して童幼の語と化し去る以前、久しく大多良の名は仰ぎ尊まれていたので、その証拠は足跡よりもなお鮮明であ…

百合若大臣の足跡

妙義山には、山上の石の窓を大太(だいだ)という無双の強力が足をもって蹴開いたという話がある。中山道の路上にこの穴がよく見える処があり、そこの半年石(はんねいし)の上に大きな足跡があるのは、その時の記念という言い伝えがある。 その大太は南朝の…

 八王子 川口 縄切(なぎれ)

柳田国男に「ダイダラ坊の足跡」という小文がある。 冒頭の一文。 「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。我々の前住者は、大昔かつてのこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像していたの…

『サンパウロのサウダージ』  メモ

レヴィ・ストロース。序文より。「語源にしたがえば、<ノスタルジア>とは過ぎ去ったものや遠い昔への感情である。一方、<サウダージ>や<あわれ>はいまこの一瞬の経験を表象しているように思われる。感覚によるか、あるいが想起によるか、いずれにせよ…