2018-05-02から1日間の記事一覧
三田村鳶魚曰く、歌念仏の徒が説経本を使用したのが「歌説経」である。 語り物としての「説経」が、唄い物としての「説経」へと変じる。 「縁起因縁の法話が、和讃の節奏を借り、編木(びんささら)に和して、最初の説経が成立し、無文であったものが、祭文…
<年中尻切半天を着ていた三代目浜太夫>「名人と言われた三代目浜太夫の時には、説経は大道芸になった」浜太夫の前身は雲助(籠担ぎ)。 ★三田村鳶魚は、浜太夫の底辺に生きる庶民性に説経の本領を見いだしている。 「説経が忘れられたようで絶えないのは、…
初代薩摩若太夫 三味線で語る説経が評判となる。しかし、これはもともとの語りの形に戻っただけ。それもわからぬほど、説経はその当時衰退していた。★薩摩若太夫による「説経祭文」は、途絶えた伝統の再生であった。◆堺町 薩摩座で操興行へ。◆嵯峨御所(大覚…
そもそも、説経のはじまりは、 「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。 「元…