2018-02-01から1ヶ月間の記事一覧

第3章「植民地の民衆」より。 朝鮮人部落のこと

●興南は、朝鮮でも特殊な環境でした。日本人は全部、社宅に入ってしまうか商店街に住み、周囲の朝鮮人部落とは隔絶していた。 ●ヨボ部落の汚いことは、見なければ話にならんです。たいがいの家が豚と犬とを飼っとるですよ。豚と犬がそこら辺に大便する、小便…

第3章「植民地の民衆」より。 日本人社宅の奥さんと朝鮮のオモニの朝鮮語レッスン

「オクサン、オデミ」 「オデミ、オッチェ(オデミてなあに)」 「オクサン、ドコスンデル」 「五区ヨ、タンシン、オリマッソ(あんたはどこ)?」 「タンシン、チョッコン、チョッコン(すぐそこ)」 「チョコマン サラメ オルマ(子どもは居るの)?」 「…

第3章「植民地の民衆」のうち 「カフェと遊郭」。そして植民地をめぐる想像力のこと。

「朝鮮じゃみんな飲みよった。飲まん人間は居なかった。行くのはほとんどカフェだった。九竜里に行けば、ドラゴン、春雨、楽園会館。天機里に行けば、赤玉、オリオン、金春、武蔵食堂……」 「興南は遊郭が賑わったもん。松ヶ野町というて、柳亭里社宅の手前が…

第3章「植民地の民衆」扉の言葉より。

··········································· 「みんな、内地で哀れな生活をしとればしとるほど、朝鮮で飛び跳ねて、ぜいたくな暮らしをしたいわけな。逃げてきたばかりの貧乏生活を、あざ笑いたいわけな」被抑圧者から抑圧者への変貌は、瞬時に起きる。被…

第2章「植民地の化学工場」中の「統治と支配」より

················································································昭和十二年頃というのは、朝鮮窒素の転換期でした。日本窒素は朝鮮で巨大な電力を安く手に入れ、アジアにかけての市場が朝鮮から延びていたから、大量生産、大規模化でき…

 第2章 「植民地の化学工場」扉の言葉 より

今の日本の、 最悪かつ広がりつつある状況のすべては 既にここにあるように思える。···························································· (朝鮮窒素の)興南工場では、日本人Aと朝鮮人Bの個人関係は生じなかった。あるのは民族と民族の関係だけであ…

自然保護の争点が、実は日米安保に絡んでいるということ

1988年の宇井純の言葉「現在全国的によく知られている四つの自然保護争点、知床、逗子、三宅島、石垣島白保のうち三つまでが、日米安保体制の強化による軍事基地にからんだ問題であることは公害防止、自然保護という一見やわらかい問題が、日本の政治経済状…

公害原論「開講のことば」より

「個々の公害において、大学および大学卒業生はほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の究明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足尾鉱毒事件をのぞいて皆無であった」「立身出世のために…

戦前に、朝鮮窒素の興南工場に電気を送るために、昭和2年より、現在の北朝鮮の山岳地帯に赴戦江水力発電所の建設工事が始まった。

ダム建設は、赴戦江、長津江、水豊と続く。 それは朝鮮窒素という一民間企業を中心とした電力開発事業でありながら、 アメリカの国家事業TVAに匹敵した。 どれだけ新興財閥窒素が植民地朝鮮で権力と結びついて横暴であったか、 どれだけ人間がモノのように扱…

「歌祭文」⇒「でろれん祭文」⇒「浪花節」

「でろれん祭文」は明治中期まで続いて「浪花節」(浪曲)の源流となった。 「ちょんがれ」「しょぼくれ」「うかれ節」も、みな歌祭文を源流とした同じ系統である。 明治期に流行した「阿呆陀羅経」は、小さな木魚を叩いてテンポを速めた「ちょぼくれ」の一…

「祭文」から「歌祭文」、「歌祭文」から「でろれん祭文」

近世中期に入って浄瑠璃や歌舞伎が大人気になると、「お染久松」「八百屋お七」「お俊伝兵衛」「お夏清十郎」など、巷間に流布した悲恋哀話を平易な祭文調で語る「歌祭文」が現われた。 三味線を用いた弾き語りが流行したが、冒頭の一句だけは、やはり祭文の…

近世の「説経語り」の風景 (俗山伏)

和歌森太郎『山伏』より 山伏がいちだんと落ちぶれて、その信仰を押売りに門付けを行なうなどのことがあった。説経を門付遊芸としておこない、お布施をもらうために山伏祭文を語って歩く、まったくの俗山伏がいたのである。 浪花節が山伏祭文から起っている…

 山から里に下りてきた山伏たちのゆくえ 

もともと「祭文」は、神や仏に祈るときに唱せられる祝詞・願文であった。 中世に入ると、修験者や巫女が、仏教の声明の曲節で、願い事を唱えたり、自分たちに縁のある寺社の縁起を語るようになり、それも祭文と呼ばれるようになった。 山から里に下りてきた…

江戸時代の山伏

「要するに、江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、…

  そもそも山伏とは……

神霊や死霊の籠もる山を背景にしたシャーマン。それがはじまりの姿だろうと。(古代よりの山岳信仰のもとに)後世、山伏の始祖と伝えられる役行者について。 「『続日本紀』に語られている限りの役小角の性格は、まず山を背景にして、山の神を操ることができ…

アナキズムであって、アニミズムであること。

なぜいま語りなのか、という問いをめぐって。石牟礼文学は、短歌となると、なぜ、日本的抒情から離れらないのか? と詩人金時鐘。となると、私は、 近代日本の共同性も日本的抒情というものも土地に根づいた言葉も、身体感覚として全くわからずに、筑豊の地…