2020-01-01から1年間の記事一覧

権力の源泉  (メモ)

自然の力を、自然のままに置くことなく、 火を盗んでくるように、 神聖不可侵の自然の奥底の力を盗み取り、 社会の中に持ち帰る者が、 自然の力を「権力」として創りかえて「王」となる。 神聖不可侵の(もしくは、死の世界である)山中に入り込むことで、 …

富雄川沿い 海瀧山王龍寺に十一面観音を観に行く。そして登美神社も。 (今日も走り書き)

2020年4月28日。 日々山伏が祈りを捧げに行く小さな滝と不動明王と十一面観音がいる王龍寺(黄檗宗)に、この日は私もついてゆく。 目的は、まずは十一面観音。そして、山伏が境内の中の小さな丘の上に見つけた「登美神社」。 王龍寺に行くには、富雄谷の谷…

閑話休題その2   富雄という地名の由来

富雄川沿いに住んでいる。2019年の夏からだ。 斑鳩やとみの小川の流こそ 絶えぬ御法のはじめなりけり (新千載集) 今回は、富雄川は「登美の小川」と呼ばれるが、その「登美」とはどこから来たのかという話。 それが気になって調べはじめたら、ちょっとびっ…

富雄川散歩は、白洲正子に嫌われた霊山寺から。  (備忘用 走り書きメモ)

2020年4月25日。大和国 登美山鼻高霊山寺。 まずは寺の縁起。公式HPから。 霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見(とみ)」の地となっています。 敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣…

秋篠寺に行ってきた。 (備忘用メモ)

2020年4月21日 富雄川沿いのわが家から、秋篠川のほうへと向けて、車を出す。 今日は秋篠寺だけ。 ここにも十一面観音がいたのだが、国立東京博物館に行ったきり帰ってこない。 この方です。厳しい顔をしていらっしゃる。かつての荒ぶる神の面影があるようで…

明日は秋篠辺りを歩く。  (予告編)

コロナのせいで、外に出たくてたまらない。 出ようと思えばもちろん出られる。 お上から自粛などを要請されたら、なおさら外に出たくなる。 しかし、見るもの触れるもののすべてが信じられないという、近代の極みのようなこの「不信の病」は、信じることによ…

大神神社の神宮寺だった平等寺と、明治以前は妙楽寺だった談山神社を訪ねる。 その2 (備忘)

談山神社もコロナ対策で、正門は閉じ、西門だけで受付をしていた。 しかし、「別格 官幣社」って。明治の世に、神仏分離を経て、それなりに偉くなったんですね、談山神社。 談山神社公式HPには、その歴史について、こうある。 御祭神 藤原鎌足公 舒明・皇極…

閑話休題  オリンピックがいやだ、と言って東京をあとにしたのは2019年7月。

奈良に住んでいる。土地勘も全くないまま、不動産屋にあちこち案内されたなかで、手持ちの貧しい予算の範囲でとこれならという家をようよう見つけて、富雄という土地に居を定めた。 奈良盆地の端っこ。目の前に生駒山が見える。矢田丘陵という丘陵地帯も見え…

大神神社の神宮寺だった平等寺と、明治以前は妙楽寺だった談山神社を訪ねる。 その1  (備忘)

4月15日。 本日はまずは、明治の神仏分離の折に三輪神社から追われ、別の場所に現在はある元神宮寺「平等寺」を訪ねる。 ここの御本尊も十一面観音だという。不動明王もいるという。神仏習合の山だった三輪山から払われた仏の部分、つまりは三輪山の<実>の…

聖林寺に十一面観音を会いに行くつもりが、コロナのせいでまずは大神神社へ。其の二。(備忘のため、走り書き)

四月八日、大神神社を午後三時過ぎに出た。 登拝のあとなので、膝が大いに笑っている。 遠ざかる三輪山を眺めつつ、聖林寺へと車を走らせる。 桜井の町は桜が満開。 寺を訪ねるには少しばかり時間が遅い。 このお方に会いに行く。 <これは聖林寺発行の絵葉…

聖林寺に十一面観音を会いに行くつもりが、コロナのせいでまずは大神神社へ。其の一。(備忘のため、走り書き)

そもそもは安藤礼二の『列島祝祭論』に、伊勢ー室生ー初瀬ー三輪ー大和―若狭を結ぶ水の道があること、それは水の女神 「十一面観音」の道でもあるのだと教えられたことが事の発端。 (ちなみに、東大寺の火と水の祭典 お水取が、若狭と伊勢の結び目になって…

土のことを何も知らなかったんだな。『土の文明史』(デイビッド・モントゴメリー) メモ

認識を変える記述のランダムな抜き書き ◆宗教改革 十五世紀には、教会は地域によっては五分の四もの土地を所有しており、貴族をしのぐヨーロッパ最大の地主となっていた。教会の土地を取り上げることをもくろんでいた君主とその支持者は、小作人の間に拡がっ…

山のものは山へ、川のものは川へ  『いざなぎ流祭文と儀礼』メモ

高知県旧物部村。いざなぎ流太夫のひとり計佐清太夫の言葉。 山の神を祭るときにとくに注意すべきは、これら眷属たちをきちんと祭ることにある。眷属たちにたいして「言葉をかけてやる」ことが必要なのだ。それを忘れると、山の神の祭りそのものがうまくいか…

山のものは山へ、川のものは川へ  『いざなぎ流祭文と儀礼』メモ

高知県旧物部村。いざなぎ流太夫のひとり計佐清太夫の言葉。 山の神を祭るときにとくに注意すべきは、これら眷属たちをきちんと祭ることにある。眷属たちにたいして「言葉をかけてやる」ことが必要なのだ。それを忘れると、山の神の祭りそのものがうまくいか…

『いざなぎ流祭文と儀礼』(斎藤英喜 法蔵館文庫) メモ

序章 いざなぎ流の「祭文」は、職業的な芸人=祭文語りに担われた歌祭文や山伏祭文、説経祭文、デロレン祭文などの近世的な祭文とはまったく異なる世界であったのだ。いざなぎ流の祭文は、太夫が執行する祈祷や神楽のなかで読誦される、まさしく宗教的詞章/…

赤目四十八滝 散歩  

車谷長吉の小説『赤目四十八滝心中未遂』を読んでから、いつかこの滝に来てみたいと思っていた。 もう小説の内容も忘れ果てたいまになって、室生寺の十一面観音を観に来て振られて(宝物館落成記念式典まで十一面観音は奥に仕舞い込まれていて拝観できなかっ…

『列島祝祭論』やっと読了。」

安藤礼二『列島祝祭論』読了。 実に面白かった。 著者あとがきから。 いびつな近代を真に乗り越えていくためには一体何をなせば良いのか。 (中略) 現在を知り、現在を根本から変革していくためには政治の革命、現実の革命のみならず、宗教の革命、解釈の革…

今日、行ってきた所。 日張山 成就院青蓮寺 (奈良県宇陀市菟田野宇賀志) 

omma.hatenablog.com web1.kcn.jp

今日読んだ詩 

ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった ぼくが樹を聴いているとき ぼくは 樹であった ぼくがその人と話しているとき ぼくは その人であった それで 最上のものは いつでも 沈黙 であった ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった (山尾三省「水」…

東大寺 二月堂 修二会に行く前に  メモ

修二会の「悔過」の本尊は、小観音。これは「生身の観音」とされている。海の彼方からやってきた。 ※小観音は、「観音が住まう南海の果て、補陀落の山から「生身の観音」の訪れを希った」僧実忠の想いに応えるようにして、「初瀬川が何度も名前を変えて注ぎ…

太古の芸能の力について。 メモ

『列島祝祭論』「国栖」の章にて、安藤礼二いわく、 「芸能によって地上にもたらされる霊的な力は、現実の諸制度の基盤となった物質的な力である武力を凌ぐものであった」 「天皇のもつ力と芸能者のもつ力が等しかった」 cf)日本書紀 天武紀四年 二月の項 …

異神   「オリジナルとコピー」  

反復によって、オリジナルとコピーの差異は消失してしまう。重要なのはオリジナルではなく、コピーの方なのだ。コピーの反復こそがオリジナルの純化をもたらす。 (中略) 始原は隠されること、「空」であることによって、逆に反復をもたらす。反復は、外の…

こうして説経の異文は生まれる。  @奈良県宇陀市菟田野 日張山・青蓮寺

2020年2月15日 今日は青蓮寺で称讃浄土経(これは阿弥陀経の玄奘三蔵による漢訳)の勉強会の第一回。 この山道を上ってゆけば、日張山 青蓮寺。 今日は、同時に、旅するカタリによる古説経「中将姫御本地」のうち、雲雀山に関わる段を初めて試みに聞いていた…

安藤礼二『列島祝祭論』 メモ

キイワードは「習合」。 「習合」を経ることによって「原型」が立ち現われる。(諸言語が混交することによって原型的な言語が生成されるという「クレオール」という概念もそこに重ね合わせたい)。 論の出発点。 柳田國男の民俗学においても、折口信夫の古代…

佐藤弘夫『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』メモ

神仏習合、本地垂迹の問い直し。 (問1)神仏習合は、異質な存在としての神と仏という観念の成立を前提としている、というのは本当だろうか? (問2)本地垂迹の「本地」の仏とはいかなる仏なのか? 古代、神は「祟る神」であり、「命ずる神」であった。 …

俊徳丸(信徳丸/身毒丸)の墓と言われる古墳を見に、高安に行く。

古墳の存在を知ったのは、後藤明生「しんとく問答」で。ずいぶん前に読んだ。 当時は東京暮らしだったので、そう簡単には行けなかったのだが、 今日、ふと、ここ(現住所:生駒の近く)から近いじゃないかと思い立ち、車で30分。あっという間に高安着! ★享…

語りとは単声ではない。   小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』メモ 2

小野和子が深く共感する中上健次の「語り」をめぐる言葉 語りは何によって成り立つのだろうと思う。語り手と聴き手の間には、親和力の漲った場所ができるはずである。語り手<私>は、その親和の場所の中で、いかようにも変る事が出来る。(中略)語りとは個…

「ほう、夜、明けたなぁ」  小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』メモ

この本の魅力は、 昔話を語ってくれる人々を求めて都市(仙台)から近郊の未知の山村を尋ねまわって(これはほとんど憑りつかれたかのような尋常ではない行動である。著者は淡々と探訪の日々を描いているのであるが)、 そうやって見つけ出した昔話の語り手…

石原吉郎  メモ  (抜き書き)

〈失語と沈黙の間〉 失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験がある 失語のほんとうの苦痛は、ことばが新しくはじまるときに、はじまることばをうしなう過程そのものが、人間にたいする関心をうしな…

山本ひろ子『異神』 メモ

牛頭天王の項 大神楽・花祭の伝承地、奥三河における牛頭天王信仰を、 「牛頭天王島渡り祭文」(原本は、修験道の大先達で花祭中興の祖と仰がれる万蔵院が、奥三河の旧田鹿の守屋家に伝授したものと言われる。守屋氏もまた修験の先達)と、 「牛頭天王講式」…