語り物

説経は大道を本拠地に、説経芝居になっては廃れ、廃れては説経祭文となり、また舞台へ、そして……。

そもそも、説経のはじまりは、 「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。 「元…

 説経の大きな流れ

説経:仏教の法談・唱導から生じ、寺院の周辺で成立したというのが通説である。仏教の比喩や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。 江戸以前:漂泊の芸能。寺社の境内や門前で語られるものだった…

 瞽女唄は、我々に「はたしてそれでいいのか」という大きな問いを投げかけている。

P225より我々が今検討すべきは、瞽女唄に残された面白さと楽しみをどのように「搾り取るか」でも、それをどのように今の社会状況の中で「生かし、利用すべきか」でもない。そうではなく、我々は逆に、瞽女唄が我々に何を求め、我々にどのように挑戦してい…

「歌祭文」⇒「でろれん祭文」⇒「浪花節」

「でろれん祭文」は明治中期まで続いて「浪花節」(浪曲)の源流となった。 「ちょんがれ」「しょぼくれ」「うかれ節」も、みな歌祭文を源流とした同じ系統である。 明治期に流行した「阿呆陀羅経」は、小さな木魚を叩いてテンポを速めた「ちょぼくれ」の一…

「祭文」から「歌祭文」、「歌祭文」から「でろれん祭文」

近世中期に入って浄瑠璃や歌舞伎が大人気になると、「お染久松」「八百屋お七」「お俊伝兵衛」「お夏清十郎」など、巷間に流布した悲恋哀話を平易な祭文調で語る「歌祭文」が現われた。 三味線を用いた弾き語りが流行したが、冒頭の一句だけは、やはり祭文の…

近世の「説経語り」の風景 (俗山伏)

和歌森太郎『山伏』より 山伏がいちだんと落ちぶれて、その信仰を押売りに門付けを行なうなどのことがあった。説経を門付遊芸としておこない、お布施をもらうために山伏祭文を語って歩く、まったくの俗山伏がいたのである。 浪花節が山伏祭文から起っている…

 山から里に下りてきた山伏たちのゆくえ 

もともと「祭文」は、神や仏に祈るときに唱せられる祝詞・願文であった。 中世に入ると、修験者や巫女が、仏教の声明の曲節で、願い事を唱えたり、自分たちに縁のある寺社の縁起を語るようになり、それも祭文と呼ばれるようになった。 山から里に下りてきた…

江戸時代の山伏

「要するに、江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、…

  そもそも山伏とは……

神霊や死霊の籠もる山を背景にしたシャーマン。それがはじまりの姿だろうと。(古代よりの山岳信仰のもとに)後世、山伏の始祖と伝えられる役行者について。 「『続日本紀』に語られている限りの役小角の性格は、まず山を背景にして、山の神を操ることができ…

アナキズムであって、アニミズムであること。

なぜいま語りなのか、という問いをめぐって。石牟礼文学は、短歌となると、なぜ、日本的抒情から離れらないのか? と詩人金時鐘。となると、私は、 近代日本の共同性も日本的抒情というものも土地に根づいた言葉も、身体感覚として全くわからずに、筑豊の地…

ところで、白山修験は「百合若伝説」を唱導に用いたのではないかという推測がある。

そもそも、現在観音寺がある場所は、かつて諏訪神社があったと伝えられている。 それが、加賀・能登方面からやってきた白山修験の影響で、まずは観音堂に取ってかわられたと推測されている。 (泰澄伝説と観音信仰の密接な結びつき) ★能生―米山―国上山―弥彦…

「北越の百合若」について。参考までに。 江戸の儒学者、すげーーという話。何がすごいって、朝鮮語の知識まで駆使して軍記物の注釈を書くわけよ。そんな注釈に目を通して、寺の由緒書に流用する地方の儒学者もいるって話で。

いや、今の知識人たちが欧米の言語をすらすらペラペラ操るのと同じように、中華の世界観の中に生きる知識人たちが、中国・朝鮮の言語を操ったところで驚くこともないはずなのだけれども、すっかり近代以降の頭で生きている私は、やはり、うっかり、すげーー…

要は、説経、伝説、浄瑠璃を取り込んで、幕末に、寺を盛りたてるために巧みに創られたお話なのです。

※以下の記述は『北越の百合若伝説 上・下 ―地方における伝説の生成と変容― 』(板垣俊一)による。「北越の百合若伝説」とは、 新潟県北蒲原郡聖籠町諏訪山にある真言宗新義派(智山派)の寺院 聖籠山宝積院 観音寺にまつわる伝説。越後29番 蒲原27番 聖籠山…

東京都あきる野市二宮には、かつて二宮芝居と呼ばれる歌舞伎集団が存在した。

※以下の記述はすべて、『多摩のあゆみ』第107号 特集「神楽、神楽師」に拠る。 この集団は神楽師によるもので、多摩地域を中心に盛んな活動を繰り広げていた。 二宮の神楽師を取り仕切っていたのが、古谷家。陰陽師でもある。 (古谷家と関わりの深い南秋…

金属民俗学、という視点がある。 それは、戦慄せよ! と、平地人たるすべての近代人に語りかける。

金属民俗学から読み解く『遠野物語』とは、遠野の「物語」ではなく、遠野という地に物語を呼び込んだ「金山」と、「金山」に向かって物語をたずさえつつ旅をした者たち/山師/山伏/聖/遊行の徒たちによって種をまかれ、風土によって育まれてきた「物語」…

遠野に伝わる「阿字十万……」の偈文から、旅する物語における、真言修験、念仏聖の存在の大きさを知る。

遠野の小友町の座敷念仏の中に、「阿字十万三世仏 微塵(彌字) 一切諸菩薩 乃至(陀字)八万諸聖教 皆量(之)阿無(弥)陀仏」という偈文がある。これと「神呪経」との深い関わり。「神呪経」は、高野聖の念仏に理論づけをしたという興教大師・覚鎫の思想…

文字を持たぬ世界

「文字をもたない世界にあっては言葉は神聖なものであり、威力あるおのと考えられた。呪言が相手の人間に不幸を与えると考えたのもそのためである。また、人々が不幸について語るとき「これは自分のことではないが……」と前置きして話しだすのも、その不幸が…

文字をめぐって

明治39年(1906)に児童就学率は96.4パーセント。 文字の浸透。 「学校教育は国家の要望する教養を国民にうえつけることであったが、それは庶民自身がその子に要求する教育とはちがっていたということに大きなくいちがいがあり、しかも両者の意図…

伝承をめぐって

★かつて、小豆島四海村小江の若者組では、なんと原稿用紙にすると85枚になる「イイキカセ」を加入にあたって覚えさせられたのだという。 正月二日に若者入り、そして十五日までには覚えた。(昭和25年当時) 「言葉によって伝承せられる社会では、言葉は…

足尾銅山の煙害と、山の乱伐で滅びた松木村跡(松木沢)に行ってきた。

風が吹いていた。山と山に挟まれた道をゆく、その後ろから、どっどど どどうど どどうど どどう、唸りをあげて風が追いかけてくる。 又三郎だな。 山を風が駆け下りてくるのが見える。風が蹴立てた土埃が風と一緒に山肌を走ってゆく。風の音は、ここにある。…

 文字を持つ伝承者(1)田中梅治翁 ――伝承における「明治二十年問題」!!

宮本常一曰く、 「文字を知らない人と、文字を知る者との間にはあきらかに大きな差が見られた。文字を知らない人たちの伝承は多くの場合耳からきいた事をそのまま覚え、これを伝承しようとした。よほどの作為のない限り、内容を変更しようとする意志はすくな…

庭田源八翁の書いた「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」から立ち上がる声に誘われて、渡良瀬川のほうへと小さな旅。

旅の記録は、↓ にある。http://omma.hatenablog.com/ 足尾銅山が原因の洪水と鉱毒で鳥獣虫魚も死に絶え、人も移り住んでゆく、足利郡吾妻下羽田。「ニ十歳以下の者この例を知るものなし」と、 鳥獣虫魚も人も豊かに暮らしていた頃の下羽田の土地の記憶を語る…

いまを生きるカタリを考えるために。その2 石垣島から

石垣島のユンタの名手山里節子さんは、昭和12年生まれ。生後間もなく、母親が病気で郷里の新潟に療養に戻ってしまったために、明治生まれの祖母に育てられた。 だから、節子さんは、明治の、日本語を話さなかった石垣島のおじいおばあたちが話していた島言葉…

いまを生きるカタリを考えるために。 その1

敗者の鎮魂の物語として「古事記」を読み解く三浦佑之氏 「いくつもの日本」という問題意識で語りを読み解く赤坂憲雄氏● 対話抜き書き<市と物語をめぐって> 三浦「市という交易の場所は、話の交易の場所と理解していい」 赤坂「お話というのは閉じられた空…

 佐渡情話を人々は愛したけれども……

米若という浪曲師は、とにかくセリフ回しが下手だった、と語ってくれたのは曲師澤村豊子師匠。豊子師匠曰く、 「米若師匠が佐渡情話を演じているとき、台詞部分になるとお客さんが聞いちゃられないやって、タバコを吸いに外に出ちゃうんだよ。で、節が始まる…

無縁と芸能 いまという時代を生きるために。

2017年10月23日。 戦後最悪の権力の、横暴極まる衆議院選挙大勝利の翌日に読み直す『無縁・公界・楽』最終章「人類と「無縁」の原理」。 網野善彦いわく、 実際、文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この「無縁」の場に生れ、「無縁…

「(足尾鉱毒事件) 鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」を読む

下野国足利郡吾妻村大字小羽田の老農夫庭田源八の声を書き写す。 20年前には確かにそこにあったものを語る声は、いまそれが幻となり、なかったもの、なかったことにされてゆくことを、そうして公の記憶が形作られていくことにこらえきれず声をあげている。小…

四月十七日夜 篠田正浩監督、亀戸にて、「語り」を語りつくす

今宵もまた遅くまで夜の街を野良犬のようにうろうろ、昼間の生暖かさは、夜には冷たい雨に変わっていました。今夜は亀戸で映画監督篠田正浩の、「語り」をめぐる話を聞いてきたのです。篠田正浩といえば、私にとっては「心中天網島」「はなれ瞽女おりん」「…

近松の「百合若大臣」は……

幸若舞・説経の「百合若大臣」に説経「信太妻」の趣向が入り混じり、やけに面白い。主役は筑紫の和田丸。今日の都の田村丸と並び立つ英雄。 「今度蒙古裡国の蝦夷起つて。新羅百済を攻め動かし直に日本と刧さんと賊船七百艘。対馬の沖に来る由日夜の注進頻り…

 昭和のごくはじめまで、北関東の農村地帯では、

所により村の神社で縁日に風呂を湧かし、近在の農家の人々に湯を振舞う風習があった。境内には戸板を並べて駄菓子などを売る店が出て<御神湯>の幟が立ち、湯殿と並んで社務所には浪曲の一座がかかった。 一座といっても親娘三人位で、母親の三味線に父親が…