春霞 本調子



春霞 ひくや所縁の黒小袖
これもゆるしの色里へ
根ごして植えて江戸桜
松の刷毛先 透き額
東男のいでたちは
間夫の名取りの草の花


さてさて、なにやら色艶と危なっかしい匂いがするのはよくわかる。
で、背景を早速「小唄鑑賞」と「江戸小唄」(木村菊太郎著)で調べてみれば、「助六」じゃあ、ありませんか。


とはいえ、「助六」と言えば、私はコンビニのいなりと太巻のほうが真っ先に浮かぶくらい、歌舞伎の素養はありません。


木村菊太郎先生が講釈してくださるところによれば、この小唄「春霞」は「助六由縁江戸桜」(歌舞伎十八番)を明治二九年五月に九代目市川団十郎助六を演じた時に作られたものなんだそうな。だいたいが「助六」ってのは、五代目団十郎の当たり役で、七代目団十郎が市川家のお家芸にしたらしい。


一方、私は「荒事も色事も得意な海老蔵君」だとか、「今頃パリで団十郎海老蔵親子ともども勧進帳なんかを演じたりした大評判」とか、ワイドショーネタはよ〜く知っているのですが、肝心の「助六」の舞台を見たことがない。それじゃあ、完璧に舞台に寄りかかって作られた「春霞」の唄の意味どころか、ニュアンスさえもつかみかねるのも当然至極。


バビル2世」やら「デビルマン」やら、(なんでこういうたとえが出てくるんでしょうねぇ、ちぃとばかり情けなくもある)、いちいちテレビや漫画でストーリを追っていなくとも、その主題歌がすべて説明してくれるなんていうご親切というか、バカ丁寧というか、説明過剰というか、つまりは想像力をまったく必要としない、行間のない歌とはまったく異質。アと言えば、ウンと応える、言わぬが花よ、あとはあんたの想像と妄想におまかせするわ、というような大人の世界がそこには垣間見えるような。


あるいは、それは過大評価で、単に、「助六」と言えば寿司折詰をまっさきに思い浮かべるようなわれわれ(いや、私だけ? われわれなどと言うのはおこがましい…)には想像もつかない、新聞とかテレビとかラジオとか情報・知識とか教育とかではなく、まさに芸能や演芸でその時代を生きていた人々が社会の空気というか色合いというか、そういったものを共有していた浮世がかつてあったということなのかもしれません。


最近お稽古して、やはりわけのわからぬ小唄に「重の井」というのがあったんですが、これは谷崎潤一郎の「吉野葛」を読んでたら、こんなの常識よーみたいな感じで小説の筋のなかに小唄「重の井」の背景の芝居の物語がスッと織り込まれていて、ふーむと唸って感心したのでありました。思うに、谷崎とと同じ時代の空気を吸っていたら、「吉野葛」ももっと染みる話なんだろうなぁ。私にはもう掴みかねる、発見することすらできない「行間」がいっぱい仕込まれているんだろうなぁ。


時代の波を乗り越えて生き続けて、聴き手、読み手の想像妄想をグイグイ押し広げる行間ってやつに私は強烈にあこがれます。


行間大好き。


なにはともあれ、早く大人になりたいというのが、私の念願であります。