茶のとが (本調子)



茶の科か 寝られぬままの爪弾きに
憂き川竹の水調子 涙ににぢむ薄月夜
暈持つ程はなけれども
曇り勝ちなるわが胸を
晴らす雲間の時鳥


わたし、歳のせいか、性格のせいか、眠りが浅いんです。


性格のせいっていうのは、いつもアドレナリンが出っ放し、いつも心が戦闘態勢(専守防衛)で、上半身の筋肉が緊張状態、背中と肩は鋼鉄のよう、首は回らない。(別の意味でも首はいつも回らない。蛇足)。


夜やっとこさ寝入っても、ほんの2時間後には目が覚めて、あとは朝まで寝たり起きたり。そんなときに、ふと、思い出しては、口ずさんでみたりするのが「茶のとが」という歌であるわけです。


眠れぬ夜のわけはそれぞれ。「あの人」を思って眠れぬ夜は、きっと誰にもあるもの。でもね、それをそのまま言うのも口惜しい。ああ、寝る前にカフェインいっぱいのお茶を飲みすぎちまったのねぇ、いやだわ、しくじったわ。てな感じでしょうか。


眠れぬばかりに埒のない想いばかりが心をよぎる。三味線の弦をゆるめて、低く小さく爪弾いて小声で唄でも歌っちまおうかしら。三味線でも爪弾いてないとやってられないのよね。で、ついつい歌っちゃうと、歌は心の奥底の思いをさらにぐいぐい引き出すもんだから、そりゃ、もう、大変。薄く雲のかかった月夜のような、雨が降りそで降らなさそうで、涙が出そうでこらえてしまえそうで、そうだ、あの時鳥みたいにきっぱりと、今度こそ、「あの人」に思いを告げて、こんな眠れぬ夜もおしまいにしよう。とまあ、「茶のとが」という小唄は、こんな展開なのではないかとわたしは思うわけです。


女に厳しい、威張りんぼ平山蘆江先生は、一歩さがってけっして不平不満を男にぶつけたりしない女性が大好きだから(私の推測。たぶん、間違いない)、「やる瀬ない涙が聞き手の心を引き寄せずには置かない」と解説されておりますが、(もちろん、それだけでなく、古曲の味わいや、一中節の風情が取り入れてあったりすることに好感を示されております)、わたしは木村菊太郎先生の、やる瀬なさを振り払おうとするきっぱりとした思いを歌ったという解釈に一票! まあ、どっちが正しいとか言う話じゃなくて、好き好きなんでしょうけど。 


夜にひとり思うことって、朝日を見たとたんに色あせたり、色づきすぎているのに気がついて気恥ずかしくなってしまったり、後ろ向きすぎだったことを光に教えられてハッと我に返ったり。夜と朝の間を揺れながら、でも光あるほうへと向かって人間って生きていくんだわ。とかなんとか、わたしも思わず呟いたりして、これも夜に書いていることだから、明日には気が変わっていたりして…。


「茶のとが」は明治半ばの作だそうな。歌の主は遊女だとか、柳橋あたりの芸者だとか、小唄通の方々はいろいろ語っておられますが、歌はいったん歌の主の口から漏れ出てしまえば、今度はそれを聴き取った者が歌の主。誰が歌いはじめたのかということよりも、だれが聞いて、そこに新たに思いを乗せて、またそれを誰かが聞いて、また自分の思いを乗せて、そうしてたくさんの歌の主(聞き手)を持ちうる、つまりはたくさんのさまざまな思いを乗せることのできる「歌」こそが歌い継がれていくんだろうなぁと、ふと思ったことでした。