世間に添わせぬ義理がありゃ
こっちに別れぬ意地がある
度胸決めれば 世間も義理も
なんのヘチマの皮一重
え〜〜 すまないが
添い遂げる
昨日7月9日はまことに、朝から慌しいというか、忙しい日でございました。
まずは国立劇場に出かけ、「新版歌祭文 一幕 野崎村」を観、それから、国会図書館に出かけ、1931年の「布哇報知」のマイクロフィルムをすべて見て、そのあとダッシュで新宿の紀伊国屋ホールに駆けつけ、「円朝夜話」(矢野誠一さん、辻原登さん、金原瑞人さんの鼎談)を聞くといった次第で、うぐいす庵に帰り着けば、口も聞けぬほどクタクタ。口は聞けぬが、この一日で体に刻み込まれたものは、たぶん、なかなかのものでござんす。
実は、今の今まで、なんだか敷居が高くて、歌舞伎を劇場で実際に観たことがなかったんです。でも、小唄にはまるうちに、江戸の世相を映しだす「芝居」やら、江戸の体が創りだした「唄」なんぞでを見聞きしたくてウズウズしてきたんですねぇ。で、歌舞伎鑑賞教室なんぞと銘打たれた高校生対象の催しに紛れ込んだ。
鑑賞教室ですから、「歌舞伎のみかた」なんてのまであって、流行りのビリーズ・ブート・キャンプまで踊って見せたりして高校生の関心を舞台に引きつけようとそりゃもう必死の説明役の方々のご苦労にほろりとしながら、はあ、歌舞伎の舞台で「刺身」が出てくる時は「羊羹」を代わりに使っているんですか、なんて妙なところで感心たりして。
「新版歌祭文」は、もとが人形浄瑠璃で、安永9年(1780)、近松半二作。主人公はお染・久松。安永7年に起きた、大店の油屋のお嬢様お染と丁稚の久松の心中事件を素材に創られたもので、それが歌舞伎化されたのは天明5年(1785)。「野崎村」の段は、野崎村で久松とその許婚のおみつと久松と恋仲のお染とが、世間の義理と人情と縁とどうにもならない恋心をめぐって、命がけの人間模様を繰り広げる場面です。
最初は久松を野崎村まで追いかけてきたお染におみつが嫉妬して追い返したり、久松ともめたり、お染・久松の真情に気づいたおみつの父久作がふたりを涙ながらに諭したり。ところが、みずからの恋心にどうしようもなく突き動かされていたおみつが、このままではお染・久松は「お夏・清十郎」のように心中すると察して、ついには、念願の久松との婚礼の日、花嫁装束で飾り立てるべきところを、髪をおろして尼になって、姿を現す。心中を決意している二人の命を救おうとする。これが大きな見せ場になるんですね。それでも、二人は世間の義理やしがらみや欲や企みで、死の道行きへと追いやられていく。これは「野崎村」の段のあとのお話です。
なるほどなるほどと舞台を観つつ、私の耳と心は義太夫の唄と三味線ばかりにひきつけられている。一番手の歌い手は若手で、おお、頑張っているなぁとは思うものの、歌と思いがうまいこと折り合わないもどかしさ。二番手は歌に気持ちがぐっと入ったものの、今度はちと迫力が過ぎて、人情の機微が隠れ気味。唄とはかほど難しいものなのですねぇ。
いや、でも、義太夫の言葉の並びというのは、見事なもんでございます。言葉が言葉を呼び出して、遊び心を忘れずに、しかもそれでいて抜き差しならぬ情況、心情をかきくどいてゆく。
〜あまり逢ひさた懐しさ 勿体ない事ながら 観音様をかこつけて 逢ひに北やら南やら〜
〜恨みのたけを友禅の 振の袂に北時雨晴間は 更になかりけり〜
〜若い水の出端には そこらの義理も糸瓜の皮と 投げやつてこなさんといつまでも 添いとげられるにしてからが戸は立てられぬ世上の口じゃわい〜
「思詰めても世の中の 義理はどうにも代えられぬ 成程思ひ切りませう」「ヲヲよう御合点なされました。私もふっつり思ひ切り おみつと祝言致しまする」
〜そんならそなたも お前もと 互に目と目に知らせ合ふ心の覚悟は 白髪の親仁〜
〜死んで花実は咲かぬ梅 一本花にならぬように目出たい盛りを見せてくれ〜
そして、お染は船に乗り、久松は竹輿(かご)に乗り、油屋にそれぞれに世間体をはばかって戻ってゆく最後の場面を締めくくるは、
〜堤は隔たれど縁を引綱一筋に 思ひあうたる恋中も義理の柵(しがらみ)情のかせ杭 竹輿に比翼を 引分くる心ぞ 世なりけり〜
練り上げられた条件反射のごとき言葉の連なりで織り上げられた語りと唄。なぞと言うと矛盾しているような気もしなくはないけれど、決まり文句のごとき言葉を自在に駆使して人の心情の綾を心憎いばかりに織り合げて、江戸の庶民の身と心にぐいと食い込ませる戯作者たちの言葉への執着、さらには、そうして作られた語りを、自在に伸び縮みする息遣いと間で唄って、言葉の芯にある真情をやはり江戸の庶民の身と心に刻み込む義太夫の節にいたく反応する自分に、今回はあらためて気づかされたのでございました。
そのあとの国会図書館は、まあ、仕事の資料探しだったのでございますが、目的のものは見つからず、ただただ、1931年という時代に、ハワイに日系社会相手に日本から歌舞伎、浪花節、沖縄芝居の巡業がさかんにやってきていたり、当時の大衆映画の雄たるマキノ映画の上映が盛んに行なわれていたということを知ったのが思わぬ収穫でございました。
落語家円朝は、本人にはそんな意識はなかったとしても、日本の近代文学(小説)の文体のヒントを明治の文学エリートにあげたことになっている人物でございます。つまりは、語り物から文学、音読(声)から黙読(文字)への時代への変わり目、「近代的自我」という小難しいものに頭の良い人たちがとりつかれてしまった明治という、近代の曙の時期に、人間を描く近代的な言葉を探しあぐねていた近代のエリートたちの最初のお手本になったということなんですが、鼎談はそのいきさつの話や取って置きのエピソードのご披露に終始して、そうやって創られていった近代的小説が、百年一日、たいした変化もなく、それどころか、今や、言葉の多くは書き手の身から搾り出されるもののようではなくなり、そして読み手の身に染む「声」も「間」も消え失せて、芯のない定番の言葉の上手な羅列になってしまっている。だから、いま、百年前に自分らの先達がやったように、再び円朝を自分たちは何かの手がかりに、新しい芯もあれば声もある言葉を創りだそうと悪戦苦闘している(という話の流れに当然なると勝手にあたしは思っていたのですが)、そういうことまでには踏み込むことはなかった。
そういう意味じゃ、失礼ながら、わたくしにとっては、鼎談自体、芯のない言葉の行きかう、身のどこにも染みない響かないものでございました。そのような鼎談のありようそのものが、わたくしめがこの世の手かせ足かせと感じているようなものと同じたちのものでもございました。
小唄「世間にそわせぬ」。いつ誰が作った歌なのか、手持ちの資料ではよくわからないのですが、新版歌祭文を観ていて、ふとこの小唄を思い出しました。道行きなんぞ誰がするか、義理もしがらみもぶっちぎり、生きてやるぜという心意気。これまた、たくましくもしたたかな庶民の真情なんだなと、はい、もっともらしく思っております。