文芸創作

文芸創作、というのは、恵泉女学園大学で私が担当している講義。
本日、いま、まさに、すぐ傍らで学生たちが作品集の製本作業真っ最中。(@大学人文学部研究室)。
十名の学生の作品が一冊にまとまる。

で、私が講師の立場でやったことというのは、
彼女らひとりひとりと、ただただ、ひたすら話したことくらいのように思われる。
(カラオケで歌いもした)。


一般論としての文章作法のようなことは、何も語っていない(語れない・語る意味も感じていない)。
逆に、
今までの作文とか、レポートの書き方とか、マニュアルとして教わったものは、ま、忘れてちょうだい、
文法的に間違っていようと、体言止め連発だろうと、ですますデアル混在だろうと、
書きたいように、とりあえず好きなように書いてみて、
という具合の、まことに乱暴なところから、はじまる講義。


しかし、教育というのはすごいな。日々、刷り込まれている文章や言説の力はすごい。
教科書的新聞的論文的ゲーム的発想の文章をあっさり捨てて、好きなように書ける者など、まずいない。
いろんな見えない縛りが二重三重十重二十重、
そんなことも百も承知のうえでの、好きに書いて、ではありますが。
私自身も、そんなことをいきなり言われたら、まず途方に暮れるでしょうし。


わが文芸創作のスローガンは、「さあ気狂いになりなさい」。


これは、子供のときから大好きなフレドリック・ブラウンの短編のタイトル。
ほかにも、直接的にそうは言ってないが、そのように言ってるように聞こえるのが、
内田百間泉鏡花レイ・ブラッドベリ、「ぺドロ・パラモ」を書いたあの作家(名前忘れた)、
リチャード・ブローティガンセルバンテス、とかいろいろ(いろいろでまとめられているほうが
より大切なことがいっぱいかもしれない)。


そういうわけで学生ひとりひとりと、「どうやって気狂いになってみようか」と、
それぞれの狂い方を話し合って、
「わたしには人間はこう見えるんだよ、世界はこう見えるんだよ」」と、
それぞれの声とリズムと言葉で語るための悪戦苦闘を講義ではするわけで、
実のところ、やっていることは非常にまっとうなのだが(たぶん)、
なぜか、学生たちはこの講義をSM教室と呼んでいる。


あと4時間ほどで、恵泉カンヅメBooksと銘打たれたシリーズの第3巻が完成する。