セザンヌからピカソへ

というタイトルの講演を雑誌「風の旅人」の編集長のお誘いで聴いてきた。
話し手は、「風の旅人」で連載をされている酒井健さん。
パワーポイントで絵を画面に大写しにしながらの話。
最近、絵なんてじっくり見る暇もなかったから、ノンビリと絵を眺めて、
ゆったりした語り口で解説を聴くというのも、なかなかよいものだった。
文字で読んだことがある情報も、耳から聴くと、不思議と新鮮に響く。
セザンヌは、一つの絵を複数の視点で描いた、とか、
それは描き手の視線というより(いわゆる遠近法)、
一つ一つのモノから立ち上がってくる視線なのだ(これがキュービズムにつながっていく)、とか、
セザンヌにとってはモノも人間も自然も区別なく、
あちら側からこちらへとせり出してくるその生命力をどう表現するのか、それが一番の課題で、
それを考え抜いて、その表現方法を探り出していったのがセザンヌの画法で、
その達成されたもの(結果)だけをうまいこと自分のものにしたのが器用貧乏のピカソだとか、
まあ、いろいろ。

セザンヌにはセザンヌの、ピカソにはピカソの、描くことへの衝動、情熱、その表れとしての画法がある、
という、ごくごく当たり前のことを確認して、
で、自分はどうなのよ…、
と、自己チューの物書きの思考は自然とそちらに向かう。

知り合いの物書きは、書かずにいられないから書く、と言い、
佐藤正午は「放蕩記」で死ぬ前にしたいことは書くことと主人公に語らせ、
でも、私には、書くことは死ぬほどつらいことのように思われて、
できれば書かないで生きる道はないかと思うことが多々ある。
いや、でも、死ぬほどつらいこと、というのとは、表現として少し違うな、言い当ててないな。
生きることの困難それ自体、と言うほうがより近いような気もする。



溝口健二の『雨月物語』を観た。
描かれている女が(死者も生者も)みな、一筋に想いを遂げるというか、
生き方(死者であっても、生死を越えた、その生き方)がぶれないというか、
立派というか、
溝口は、女がよほど怖かったんだろうなと、たぶん的外れな感想。