彼岸の時間

「演劇の一場面 私の想像遍歴」(小島信夫 水声社)を読んで書評を書く。

小島信夫の文章を読んで感じるのは、書き手(語り手)もまた書き手(語り手)自身にとって他者のように現われてくること。書き手(語り手)を観察しているもうひとりの誰かがいる。つかみどころのない、でも確かに存在しているらしい誰か。他者。文章の内にも外にも他者しかいない。読んでいる「私」まで不確かに曖昧になっていくようで、自我がぐらぐらする。そんな感覚が行間から立ちのぼってくる。

そういうことをつらつら考えながら、読み始めた「彼岸の時間 意識の人類学」(蛭川立 春秋社)が実に面白い。人間と意識と世界の連関というものを深く考えさせられる。意識とか自我という正体不明の強力な縛りについても考えさせられる。自分自身の意識の流れを他者のように観察する、という方法論で語られる瞑想と、瞑想によってたどりつく境地に大いに興味を惹かれる。

本筋ではなく、枝葉のところで、ツボにはまった話も多々あり。
台湾の先住民ヤミ族は何度か生まれかわると最後には草や岩に宿る魂になるのだそうだ。これは気に入った。草や岩になりたいものだと思った。

われわれはもしかしたら初めから全宇宙の情報を知覚していて、脳はその中から不必要な情報を「忘却」させることによって情報量をコントロールする働きをしている、かも。(ベルグソン、ハクスリーはそのような発想をもっていたらしい)。

すべての他者は自分の「生まれ変わり」と考える「遍在転生観」がある。これは、つまり、大雑把に言うと、「おれがあいつで、あいつがおれで」的な、他者も自分もない話になってくる、のかな…。とりあえず愉快。

「<私>は、時間の第二次元軸上を無限に転変を重ねる宇宙唯一の自己意識である。宇宙に生きとし生けるあらゆる人間、あらゆる自己意識的生命個体は、この唯一の<私>の、時間の第一軸上の投影にほかならない」(渡辺恒夫)


なんだかスピノザがエチカで語っていることを想い起こさせるが、ただ想い起こしただけで、何がどうつながっていたり、つながっていなかったり、似ていたり、あるいは違っていたりするのかは、はっきりとは言えない。あやふや。