剣術

新陰流の達人の前田英樹さんが主宰している会の稽古をのぞいてきた。底冷えする体育館で、すり足で一本の線の上をすーっと前後左右にぶれることなく歩く練習をしている人、ガラス窓に向かって型の練習をしている人、指導者と向かい合って型をひとつひとつ確認するように稽古をつけてもらう人、十数名が稽古に励んでいる様子を1時間半ほど眺めていた。
なんというか、身から夾雑物を削ぎ落としていく、実に省エネ(?)で、すっきりとしていながら、非常にゆとりのある所作をする身体への改造の現場を覗き込んでいるような気がした。

そもそもは、前田さんの弟子である知り合いに、議論の時の、あるいは物事を考える時の、軸のぶれない、それでいて柔軟な、しかも相手のムダな動き・思考にまったく頓着せずに(余計なものは見ていない、惑わされない、正面からまともに受けない)、すっと相手の芯の部分を貫く、前田さんの思考の構えというものを教えられ、それが前田さんの剣術に相通じるものだというふうにも聞かされて、興味を持って稽古を覗きに行ったのだった。

印象的なのは、達人の前田さんが、一番脱力して見えたこと。体に余計な力がまったく入っていない(ように感じられる)。流れるように動いている。エイヤッと力が入っていると何となく見栄えがいいような気もしなくはないのだが、なるほどエイヤっでは、動きがきれぎれになるな、そのたびに軸がぶれるな、と見ているうちに少しずつ分かってきたような気がしなくもない。

剣術の「型」を練習する人々を眺めるうちにふと思った。
実際に真剣で相対して戦うこともあった時代、命がけの斬り合いがあった時代に、勝つため=生きるためにたどり着いた所作がこの「型」なのだろう。そして、今このときには、また別の生きるための条件反射の「型」がわれわれには刷り込まれているわけだが、その「型」というのは、思考の「型」と深く結びついているようで、少なくともそのことはきちんと意識していたいなと。知らぬ間に刷り込まれた「型」を、条件反射でただ生きてゆくのはイヤだなと。