小説の自由

同じことを語るのに、それが、「夢からさめる」なのか、「夢をみる」なのか、あるいは、「つながっている」のか「つながっていない」のか、そのどちらのほうがより言いえているのかを一日ぐるぐる考える。考えているとなかなか筆は先に進まず、うっかりすると書くことを忘れて本を読んでいる。

おかげで佐藤正午内田百輭小島信夫保坂和志も、あれこれつまみ読み。
保坂和志の小説論「小説の自由」が面白い。保坂和志の書いていることがいちいちストンと落ちてきて、いま自分が書いているもの(いわゆる「小説」ではない)や、それを書いているときの自分を、少し距離感を持って眺めるのが楽しい。

「小説は、読者の精神を寝かさないためにあるものなのだ」と、かなり大見得を切った感じの保坂和志の言葉も、確かにそうだよなぁと思いつつ読む。こういう言葉に出くわすと大見得を切ったふうに感じるのは私の側からくる感覚なのか、保坂和志がそういうつもりで本当に言い切っているのか、それもまたどちらなのかはよくわからないのだけれど。

そういう言葉を読んでつくづく思うのは、眠りながらでも、条件反射だけでも、自分のどこも開かなくても、起動させなくても、フリーズしていても、すらすら読めるような文章を読むのに時間は浪費したくないな、それだったら歌でも歌っているほうが健康的な時間の使い方だなと……。(ただし、実用本、マニュアル本にかぎって言えば、条件反射的文章が当然に一番読みやすくて、ありがたい)。

「身体と言語のきしみ」ということも保坂和志は語る。「小説は、やっぱり言語でなく身体、一般化される以前の個人としての身体が起点となっている」と。「これは予想というかまだ中身としては全然詰められていない考えでしかないのだが、身体と言語のきしみが小説に反響しているかぎり、小説は自我なんていうちっぽけなものでなく、人間の起源に向かいうる」とも。私もそのように感じる。「きしみ」とは、実に言い得て妙な表現だと思う。その表現を借りるなら、私もきしんで書きたいと常々思っている。

「小説の自由」はまだ途中までしか読んでいない。が、とりあえず、ここまで読んで、保坂和志が語っていることで一番驚かされたのは(印象に残ったのは)、小島信夫が、「抱擁家族」以降の作品は書きっぱなしで編集者に渡して、推敲も校正もしなかったというエピソード。