父のトランク

「新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」を国立劇場で観てきた。一般には「魚屋宗五郎」の件りが有名なお話。今回は、魚屋の場面の前提となる「お蔦殺し」の件りから見せる通し狂言
お蔦は宗五郎の妹。旗本のお殿様に妾奉公に出ていたのだが、悪者連中の企みにはまったお殿様に理不尽にも手打ちにされる。そのコトの真相を知った宗五郎が金比羅様に誓った禁酒を破るという流れになるわけだが、飲んで酔って乱れていく様が大きな見所。「お蔦殺し」の場面が「番町皿屋敷」を下敷きに作られている。と、ここまでパンフの受け売り。

お蔦は片岡孝太郎、宗五郎は尾上松緑
歌舞伎は舞台の上から、ここが見せ場よ、ここでウケてちょうだいと阿吽の呼吸で知らせてくるから、わかりやすくてよい。逆に言えば、わかりやすさの上に芸を乗っけねばならないから、役者はかえって大変なんだろうと思った。型がある芝居で個性を出すことの難しさ、と言い換えてもよい(と、なんだかエラそうに書いているが、実は歌舞伎はあまり見たことがない。むしろ大衆演劇のほうがよほど沢山観ている)。

宗五郎は松緑の祖父の当たり芸(だったらしい)。松緑は今回が初演。宗五郎役の話が国立劇場から来たときに松緑は、この由緒ある大役を引き受けるかどうかは自分では決められないと、「菊五郎ニイサンに受けてもよいかどうかを判断してもらった」というような内容のことを舞台終了後のアフタートークで話していた。伝統を引き継いでいくことの厳しさが垣間見える話。今まで宗五郎を演じてきた役者たちがどのように演じたのか、私は全く知らないが、松緑の宗五郎は滑稽味がある。酒をぐいぐい飲んでいく場面の体の動きはほとんど大ナマズの身震い。漫画のよう。それもアメリカンコミック調。ここはあまりオーバーにやると幼稚になるし、かといってここが見せ場だし、「型があっても、役者の体に合わせた、見栄えのする体の動きがある」(松緑談)とも言うし…、面白い動きではあったけれど、芸としての評価については私にはわからない。総じて「新皿屋舗月雨暈」という芝居は、理不尽極まるお蔦殺しの場面から、既に<喜劇>であるように感じられたが、いいのかしら、そういうふうに受け取って……、パンフの文章はなんだか格調高いのだけど……。うん、まあ、とりあえず、私の中では<喜劇>ということにしておく。

ノーベル文学賞受賞講演を読む。2006年度のオルハン・パムクのと2008年度のル・クレジオの二つ。圧倒的にオルハン・パムクの声のほうが心に届く。心を揺さぶる。ル・クレジオの講演は頭で咀嚼するもの。たくさん立派なことが語られているのはよくわかったが、読んでいて鬱陶しくて、だんだん飽きてきた。
パムク曰く
「書きたいから書くのです! ほかの人たちのように普通の仕事ができないから、書くのです。わたしが書いたような本は書くべきで、読まれるべきだ、だから書くのです。(…中略…)行くべきところがありながら、いつもそこへ―まさに夢の中でのように―どうしても行けない思いから救われたいと書くのです。どうしても幸せになれないために、書くのです。幸せになるために書くのです」(「父のトランク」藤原書店 より)
胸にずんと来る声。飾りのない正直な言葉。泣ける。