反省する審査員

3月21日は、第二回クムホ・アシアナ杯「話してみよう韓国語」高校生大会の日本語エッセイ部門の審査員をしてきた。(他に韓国語スキット部門、韓国語スピーチ部門がある)。日本語エッセイ部門のもうひとりの審査員は作家の関川夏央さん。関川さんとは、第一回以来のコンビ。

日本語エッセイ部門では、韓国語はまだあまり話せないが、韓国に関心があるという高校生が、韓国をめぐるエピソードを1000字ほどのエッセイにまとめて、それを舞台上で発表。エッセイの内容とパフォーマンスまで合わせて審査する。

今回の審査では、気がつけば、私はすぐに突っ込みを入れる「意地悪なおねえさん」と化していて、おのずと関川さんが、おねえさんに意地悪されて傷ついた高校生を温かい言葉で癒す「優しいおじさん」となっていた。
(実際、私のコメントを受けて、関川さんは何度か「意地悪なおねえさんだね」とおっしゃった…)。

なぜ「意地悪なおねえさん」になるのかといえば、高校生の等身大の声を聴きたいから、ということに尽きる。

韓流ドラマにはまる高校生、東方神起にはまる高校生、修学旅行で知り合った韓国人の友を持つ高校生、韓国人のメル友を持つ高校生、韓国人の母を持つ高校生……、とさまざまな高校生が出場するのだが、彼らの体験、彼らの心の動き、彼らの考えたことが、このようなコンテストにつきものの「論」(「志」、「思想」などなど高い見識を着地点とする)にまとめられがちで(平和論とか国際交流論とか文化論とかいろいろ)、そうなると高校生たちが韓国に初めて出会ったときのみずみずしい感動は「論」の下に押し込められて見えなくなる。
しかも「論」のほうは、どうもエッセイの体裁を整えるための借り物(紋きり、定番)が多く、高校生の「体験」を「論」へとまとめる段階で、論理の破綻をきたしていることが少なからずある。その破綻をつついて、「論」を崩して、高校生の生の声を掘り出す。
本当はあなたはどういうことを言いたかったの? あなたが言いたかったことは本当はこういうことじゃないの? と問いかける。
というような作業を「意地悪なお姉さん」は行ない、時折、うっかり口が滑って、本当に意地悪なことを言ってしまうのが玉に瑕。(心から反省している)。

http://www.asiana.co.jp/speech/