卒業

3月23日は娘の大学の卒業式だった。冷たい風吹く、まことに寒い日だった。
慶應日吉キャンパスは卒業生とその家族で溢れかえり、その家族の多さと言ったら、卒業式会場とは別に、大スクリーンで卒業式の模様を映し出して見せる家族会場があるほどで、二十数年前、自分自身の卒業式にすら関心のなかった私には別世界に紛れ込んだような心持にさせられる出来事だった。
(小学校、中学校、高校、大学と、どの卒業式もなんの感慨も思い出もなく通り過ぎてきた。大学は卒業アルバムすら持っていない。卒業式そのものの記憶もまったくない。式後に今は朝日新聞にいる同級生と本郷三丁目の喫茶店でお茶したことしか覚えていない。そのとき私は彼女と井上陽水の「9.5カラット」というアルバムのことを語り合い、「飾りじゃないのよ涙は」がいいなぁとかなんとか話していた。それから彼女とは今までに一度しか会っていない)。

慶應というのが卒業生の紐がどこにもまして強い校風なのか、塾員(卒業生)代表からの祝辞、三田会(同窓会)からの歓迎の辞の熱のこもり方、そのうえ1984年度卒業生(卒業25周年)が卒業式に招かれて多数参加をしているとともに卒業式のこの日に多額の寄付(1500万円だったかな…)を大学にしていること、周囲の親たちまでが慶應の塾歌を普通に歌えることに、いちいち驚いた。(しかし、あまりに長い卒業式に激しく居眠りした)。

塾員代表祝辞は、さる大企業の経営者が登壇。
「感謝せよ」「自分の未来は自分で創れ」「人を幸せにせよ」と歯切れよく、高らかに、卒業生たちに語りかけ、卒業生たちよりも親たちのほうが深くうなずいていた。(私もうっかり何度もうなずいた)。

卒業はわかりやすいひとつの区切りではあるけれど、公的なけじめの儀式として意味深いものではあるけれど、自分自身の人生の時間の流れのなかには、もっと別の、もっといっそう意味深い区切りが少なからずあったように思う。
誰にも気づかれない、自分だけが知っている、なんでもない言葉が行き交ったある瞬間、そのなんでもない言葉がとてつもなく大きな意味を持ったその瞬間とか、
誰も知らない、私だけが知っている、ある変化の最初の一歩を踏み出した瞬間とか…、
そのときに感じた空気のにおいとか揺れとか、
そのときに一緒に居た人のかすかな表情の変化とか、声の響きとか…。

そういう瞬間の情景を数限りなく思い出した。