かすかで、大きな、揺れ

私は泣いたことがない、などと言うとまるで井上陽水中森明菜のようであるけれど、人前では泣かない、それだけでなく、喜怒哀楽もあまり出さない、そんな「含羞人生」(こういう表現でよいのだろうか…)を、ン十数年。感情とか心の動きというものは、外に漏れでないように押さえ込んでいると、内側でもだんだん窒息していったり摩滅していったりするもののようである気がして、「含羞人生」はどこかで間違うと「無感動人生」へと滑っていくような、そういう惧れを含羞に滲ませて、そこはかとなく不安な人生を生きていたりもする。
と、言いつつ、主観と客観はかなり違うものらしく、私の心の動き(自分では微細な振動のように感じている)は、親しい関係のなかでは、あまりに分かりやすい、ダダモレ、節度がないという悪評が高く、それが私には不満でもあって、たとえば娘なんぞは、私の「微細振動」を巧みにキャッチしては、ニヤリとして、心のうちはすっかり読ませてもらった、というような表情を見せる。隠しているはずなのに、洩れている、そのしまりのなさが、不甲斐なく悔しくもある。
昨夜、この四月に社会人になった娘が、初任給が出たからと、いきなり私にプレゼントを差し出す。フフフと微細振動。頬をぴくり、あくまで微細振動。(心の中ではうれし涙の大号泣……。オヤバカ)。こればっかりは敵も気づいてないはず。だからどうなんだ、という話でもある。

「LONGO DO BRASIL1935−2000 ブラジルを遠く離れて」(今福龍太+サウダージ・ブックス編著)をジャケ買い。岩波「図書」2月号、今福龍太「頭蓋の蟻塚」をちょうど読んだばかりで、それはレヴィ・ストロースに触発されて書かれているもので、その内容は「ブラジルを遠く離れて」と響き合っているものでもあって、そこにはそもそも人類学者今福龍太がレヴィ・ストロースと声を通わせあいながら歩いてきた旅がある。
ひとが旅するさまを見ることは、ひとの本棚を覗くのと同じくらい、楽しく、刺激的。一緒に歩く、一緒に読む、のではなく、ああ、あの人はあんな歩き方、読み方と、励まされるような鼓舞されるような心持で自分にはない道筋を眺めやり、そしてまた自分の道をひとりゆく。

レヴィ・ストロースは「悲しき熱帯」でこう言う。

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」。

文脈無視で取り出したこの一文に、胸をつかれるような思いを抱きつつ、でも、この世界を旅して生きる人間のひとりとして思うところのある私は、それでも歩いていくよ、始まっても終わっても何回でも繰り返しいつまでも歩いていくよ、と呟いてみたりもする。