読むから書く、書くから読む

われわれは皆ゴーゴリの「外套」から出てきた。と言ったのはドストエフスキー。それはつまり、ドストエフスキーゴーゴリの「外套」から小説の方法を読み取ったのであり、その方法とは、「哀話」としての素材を「喜劇」に「異化」するものであったと、その小説論で語るのは後藤明生
さらに後藤明生いわく、読むことは書くことと対等、時には書くことよりエネルギーを要するかもしれない。(同感)。読んで読んで読むことで、書き手は自分自身の「外套」を発見する。読むことで、書くことの方法論を掴み取る。同時に、自分の言葉、自分の文体を創りだしていく。
しかし、これは気が遠くなるような作業だなぁ……。

「外套」を読んだのは、中学生の頃だったか。アカーキー・アカーキエヴィッチという名前が子供心に妙に可笑しかった、そのアカーキーが幽霊になってしまうのがなんとも哀れだった、ということくらいしか覚えていない。

初校に手を入れる。行間が意味を持つギリギリまで言葉を削る作業。近頃昼夜逆転気味。何をいまさらの「ゲド戦記」を読み始める。