私、嘘はつきません。

先日のこと。青山一丁目に行くのに、永田町で南北線から半蔵門線に乗り換えた。電車の扉が開いて乗り込んだ瞬間に、ふっと、“あの人”が乗っていると思った。車内を見回す。ほらね、左手斜め前方に、カバーをはずした文庫本を手に座席に座っている“あの人”。普通に“あの人”に向かって歩いていって、コンニチハ。“あの人”は、予期せぬ私の出現にフリーズ。えっ、なんで、こんなところで? という表情で固まっている。コノ電車ニ乗ッテルコトハ分カッテタノヨ。私がそう言うと、ようやくフリーズが解けた“あの人”が、嘘だ、と一言。
イイエ、嘘デハアリマセン。

ときどき、こういうことがある。この人には会わねばならないと強く思っている人は、たいてい、わざわざアポ入れをしなくても、どんな成り行きであれ、会うことができる。この人だけには会いたくないと強く思っている人も、たいてい、どんなに巧みに避けたつもりでも、会うことになる。会いたい、会いたくない、会わねばならない、会うべきではない、といった思いの中身はたいして関係はなく、その思いの強さが人を引き寄せる。だから、その人へに向ける念がなければ、会うこともない。

念ずること、祈ること、呪うこと。死に物狂い、一心不乱に想えば、物事も、人も、世も、神も動く。そういうものなのだと思っている。


宇野浩二「清二郎 夢見る子」より 気になった言葉

私は私の過去の小さい生活
を思ひ浮かべる時 その何処ま
でが真実で その何処からが
私の夢であるかを判ずる事が
出来ない
 さういふ私は 凡ての事実
を夢と見ることが出来 凡て
の夢を事実と見る事が出来
る様に思はれる


明日より3泊4日で鹿児島鹿屋。ハンセン病市民学会の交流集会に参加。