『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(金石範・金時鐘)を読了。
四・三事件をめぐって書き続けてきたのは作家金石範。沈黙してきたのは詩人金時鐘。
四・三事件の渦中にあって凄惨な体験をしたのは金時鐘。日本にあって、死ぬか生きるか殺すか殺されるかの究極の現場から脱出してきた人々の話を伝え聞いてみずからの生にまとわりついていた虚無、ニヒリズム(世界や存在に対する無感情)を徹底的に問わざるを得なくなったのが金石範。
二人とも戦後すぐの時期に共産主義の思想に普遍を見出し、現実の共産党の活動に絶望・挫折した経験あり。
書きつづけてきた金石範曰く、「私は四・三の歴史を書くつもりはない。『火山島』は、歴史小説じゃない。だから、ニヒリズムを克服するために、『鴉の死』を書くことで、生きるという現実の肯定をするわけです。…中略… ニヒリズムの問題は、西洋では神の問題となる。…中略… 我々には、少なくとも私には西洋のような神がない。神に代わるものとして革命があった。生きることを肯定するために、現実を、変革するものとしての現実を肯定するわけですよ。だから、革命そのものが神に代わるニヒリズムの克服だった。しかも昔は、党や組織が革命の絶対的な権威だった。だから党からも組織からも脱落してしまった自分への絶望と孤独は本当に深かった。四・三を書くことで、ようやく『孤独をおしのけ』、生にとどまることができた」。
沈黙してきた金時鐘曰く、「記憶というのが、ひと条の糸のようなものだったら引きずり出してまきとっていけるのにね、思いおこそうとするとかたまりのまま、わっと押しあがってくるから、言葉にならない。言葉に関わりながら、言葉にしようがない。…中略… 実際は創作こそが、つまり虚構こそが事実を超えうるし、事実をより普遍的な事実として描き出せるものなんですけどね。わかっていながら自分の小さな体験に重きをおいてしまう。…中略… 事実が真実として存在するためには、その事実が想像力のなかで再生産されなくてはならない。それが客体化された事実、文学なんだ。…中略… ぼくは事実(=自身の四・三体験)にとりつかれるあまり、手も足も出なかった」。
生きるために書く。個の生のよりどころとなる普遍を掴み取るために書く。事実の底に潜んでいる真実を引き出すために書く。個々の事実の呪縛、記憶の呪縛を解くために書く。「地の底に凍てついた人々の真の言葉」(金石範による表現)を溶かして引き出して書く。そんな書き手=表現者たちの言葉を読みながら、つらつら埒もないことを想ったりもする。
ここから先は、まとまりのつかない独り言。
言うまでもなく、言葉はすべてを語りえない。しかし、紙の上の文字、耳にした言葉を、人はとかく額面どおり、それが現実のすべてであるかのように受け取りがちでもある。そんなとき人間の現実は二次元のなかでウスッペラに、タメもなく、厚みもなく、残るものもなく、流れるように動いていく。
そんな二次元の世界に楔を打ち込むように、流されていく船から錨をはるか下の海底に投げ下ろすように、形になろうとはしない言葉をまさぐって、すくいあげていく。書くという行為(=言葉を紡ぐ、表現するという行為)は、まずは、そのような三次元の想像力を持つことから始まり、さらに、いま、ここ、あそこ、あのとき、このときへと自在につながっていく通い路を三次元の世界に拓いていこうとする、いわば四次元の想像力によって深く豊かなものになっていくのだろう。
語らない、沈黙によってしか語りえない、生きるために沈黙する者たちの0次元の言葉というものもあるのだろう。
0次元、1次元、二次元、三次元、四次元、…、n次元。変数n。n次元の言葉。そのひとつひとつの次元と言葉に想いを馳せようとするのだけど、なかなか思いは自由に飛ばない。