清く美しい言葉は、ねじれる。

鹿児島に作られたハンセン病療養所星塚敬愛園を、敬愛園開設当時(1935)の幹部職員のひとりは、旧約聖書の故事になぞらえて『のがれの町』と呼んだ。一般社会で迫害を受けるハンセン病者がのがれ来る場所としての療養所という意味がそこには込められている。
「のがれの町をあなたがたのために定め、(中略)その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。」(ヨシュア記20章2、3節)

昭和26年、『信仰のあかし』として、クリスチャンである一人の患者は、ハンセン病について、こう書いた。
「私の魂はこのライという人生最悪の手段によらなければ神の愛を知ることのできないほど罪深い傲慢な存在であったのである。神はこの傲慢な私の魂を打ち砕くための最上の手段としてライという特殊な手段を用い給うたものと思われるのである。これは正しく神の非常手段である」(鹿児島・星塚敬愛園のあるハンセン病者の言葉)

戦時中の昭和19年、矢内原忠雄東大元教授は、『非常時下に於ける弱者の存在意義』と題して、ハンセン病者に向けて、開口一番「あなた方はマイナスの存在である」と語りだした。他人のため、国のため、世界のために真摯に祈ることによって、そのマイナスの存在をプラスに変えうるのだと説いた。患者たちは最初は驚き、そして最後には感激したという。

星塚敬愛園内の教会史を読んだ。ハンセン病と宗教を考えた。
宗教の言葉は、そのうわずみだけをすくってくると、ばかばかしいだけの「理不尽」を気高い「試練」にすりかえ、弱き者がそのような境涯に置かれていることに意味と慰めと諦めを見出す拠り所の言葉として大いに力を発揮する。レトリックとしての宗教。そのレトリックを使う方も使われる方も、やがてレトリックにのまれて、レトリック以前、そもそも言葉がうまれきた厳しい場所をきれいに忘れる。

清く美しい言葉には、罠がたくさん仕掛けられている。危ない、魔の言葉。

6月16日に刊行予定の単行本の表紙ラフ案があがってきた。この表紙でいくことに決定。表紙画は友人に描いてもらった。