言葉を開く。

「泥海」「暗い絵」「崩壊感覚」と読み、今は「わが塔はそこに立つ」を三分の一ほど読んだところ。いずれも野間宏作品。
「わが塔…」は「暗い絵」の延長線上にあり、さらに広く深く、文学の問題、性の問題、欲望と愛の問題、政治の問題、人間関係の葛藤の問題、宗教の問題等々、さまざまな普遍的なテーマを、戦前の京都の大学生(作家の分身)を主人公に、稠密で、凝縮された、高濃度の、油絵のような、執念深く色を塗り重ねていくような描写で、具体的な人間像が息づく具体的な状況のなかに織り込んで、物語を構成していく。
この執念深さは、最近の小説ではなかなかお目にかからなくなった性質のもの(野間宏が数十ページ費やして書いていることは、最近の小説では数行で通り過ぎていくような、そういう感じ)。この執念深さは懐かしい、と言ったら語弊があるか……。(古い、昔の、文学という意味で懐かしいと言っているのではない)。
これは勿論、執念深いのがいいのか、淡白なのがいいのか、という単純な話ではなく、語ろうとしていることに相応しい言葉と表現を追求していった結果の執念深さであり、淡白さであるわけだが、野間宏の表現の執念深さはより具体的に言うなら、徹底的に「言葉を開いていく」ことへの執念、とも言えるかと思う。

たとえば、「苦しい」という感覚がある。「生き難い」という感覚がある。それをただ「苦しい」「生き難い」と一言書いて通り過ぎてしまえば、文学表現としてはミもフタもない。何も語っていないに等しい。(でも、実のところは、そういうミもフタもないのが世の中には結構流通しているのだけど…)。
「苦しい」というその言葉を押し開いていって、その言葉の襞に分け入って、「苦しい」が生まれくる場所で、「苦しい」という一語を使わずに「苦しい」を描き出す。「生き難い」の一語を使わずに、「生き難さ」を描く。
どこまで、言葉を開いていけるか、その点での執念深さを、私は文学のありようとしては好ましく思っている。そういうことを、徹底的に言葉を開こうとする性癖のあるらしい野間宏の作品を読みながら、つらつら考えた。

無量寿経」を読む。出家もいいかなぁ、と一瞬血迷う。