強情なえび

ストレスがたまると、やたらに本を買ったり借りたり、とてもじゃないが読みきれないほど本を積み上げて途方に暮れる。


国書刊行会の日本幻想文学集成の室生犀星の巻は矢川澄子編で、「蜜のあはれ」に始まって、魚尽くしのラインナップで、締めは「老いたるえびのうた」。しびれる構成。

けふはえびのやうに悲しい
角やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがつてゐるのか判らない

ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがってゐるのか
誰に聞いてみても
さつぱり判らない

生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋。
からだぢゆうが悲しいのだ。



ヨーゼフ・ロート「放浪のユダヤ人」、別の意味で痺れながら(いや、震えながら)読む。ここには人間の運命が鮮やかに書かれているじゃないか。読むほどに、これだけ明快に書かれた予言をどうして人間は受け取り損ねてしまうのだろうと思う。哀しい。


佐野洋子の強情っぱりな物語を読む。
―強情っておもしろいの?
―そりゃあ、おもしろいわよ。強情でない人がどうして生きているのかわからないわ。

強情な私が思うことには、強情はおもしろくはないが、強情でない人がどうして生きているかわからないというところには激しく同感。せつない。