暇つぶし

『小説修業』保坂和志あとがきから。

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 小島さんの書いたものを読んでいると、「理解する」ということがじつは薄っぺらいことだということがだんだん実感されてくる。小説を読んで、その小説が言わんとするところを「理解した」と思ったとき、私たちはそこでそれ以上考えることを終わりにしてしまっているのではないか。しかしそれはつまらないことだ。本当におもしろいいことは「理解する」ことではなく、「際限なく考えつづける」ことだ。
人生とは? 人間とは? この世界とは? それらは「わかった」と思うことなどできるようなものではなく、私たちはただ考えつづけることしかできない。だから小島さんは、答や結末に向かって小説を書くのではなく、終わることのない問いを書きつづけた。「問い」というのは、人生やこの世界に対する違和感とかおかしな手触りとか不可解さと言ってもいい。

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人が書くということ、表現することに向かうということは、まさに上に書かれていることのほかに何があるんだ? とずっと思ってきた。見えない部分、聴こえないこと、計り知れない有象無象を、思考の外に棚上げにしての、思考の外を切り捨てての、文学というものは、(それは既に文学とは別モノ、単に文字で何かを表現しただけというレベルの与太話と言ってもいいのかもしれないが)、とにかく、そのようなものは、私には、単なる暇つぶし、パチンコするのとか、ゲームするのとかとさして変わらぬものに、ずっと感じられていた。
1985年、当時在籍していた会社の忘年会のビンゴゲームの景品で「スーパーマリオ」を手に入れて、年末年始それに没頭するうちに、このままでは私はバカになると、当時中学生だった弟にマリオをくれてやって、弟はそのためにますますバカになったのではないかと、時折罪の意識に駆られることもないこともなかったのだが、つい最近、ゲームと眠ることが大好きというある学生の話を聴くうちに、自分がなんと浅はかで薄っぺらいPTA的な一面的「理解」「見解」をゲームにのめりこむ人々に対してしていたのだろうということに気づかされた。
学生とのやり取りの詳細はここには書かない。ただ、やりとりの結果わかったのは、学生はある理不尽によって、見えない手で口を封じられ、同時に表現することをみずから禁じていたということ、表現すること自体が生きることに対する脅威となり恐怖となる状況に学生が置かれていたということ、それがどのようなものであれ、とにかく表現することから逃れる、その逃亡先として学生にとってはゲームの世界があり、眠りの世界があったということ。沈黙のなかで自分を守るために、生きるために、どうしても必要だった世界。
理不尽、違和感は表現を呼び出すだけでなく、表現を押し殺しもする。沈黙は、しかし、考え続けていないということではない。たしかに考え続けている。言葉にならないほどに激しく考え続けている。その考えているときのきしみや唸りや痛みの音が沈黙のなかには渦巻いている。
いまいちど、見えること見えないこと、書かれたこと書かれていないこと、語られていること語られていないことを考える。どんな表現に接しても、それが「沈黙」という表現であっても、一見したところは「逃げ」という行為であっても、その表現・行為のさらに外側の声、情景に思いをはせる。
と言いつつ、パチンコやら「問い」のない本やらゲームやらで暇つぶしをするのは、まったくもって時間のムダ、人生のムダ、愚かな所業よと、拭いがたく考えている自分もいる。同時に、じゃあ、暇つぶしじゃない人生ってあるのかと、意地悪に醒めた声で問いを投げつけてくる誰かが自分のなかにいる。
わかりません。生きることは暇つぶしのようでもあるし意味あることのようでもあるし、それを私はやはり考え続けているような気もするし。

はっきりしているのは、やはり、私はなにかと考えつづけるたちである、ということだろうか。考えていることが外に漏れやすいたちでもあるようだ。こらえ性がなく、漏らして、語って、書いたりもする。
そんなことをしているうちに、保坂和志が言うところの「薄っぺら」に自分がなっているような気もしなくはない。いやだな、「薄っぺら」。実にいやだ。そうか、一番いやなのは、「薄っぺら」なのか、私が一番気を遣って、時間を費やしていることというのは、どれも、少しでも「薄っぺら」じゃなくなるためなのかと、ふと、ここで、またあらためて気づいている。そのうち、この気づきもまた忘れるような気もする。