チチンプイプイ

ぼんやりしていたら、ニョロニョロのみが舟に乗って旅立って、私は岸辺にひとり残されていた。

書評原稿脱稿。上野の西洋美術館に「ローマ 未来の原風景 by HASHI」を観に行く。英語での展示タイトルは、「ROME:future deja vu」。千年後の未来に再発見された21世紀の今の光景というコンセプト。和紙に焼き付けられた写真のような絵画のようなモノクロのローマの風景、人々。過去のようにも未来のようにも見える。現在はその風景を見ている私のもとにあるのだが、目の前の過去もしくは未来との関係をつかみかねて、宙吊りにされる。宙吊りの現在。気持悪い。解説には「これらの作品が懐かしさに似た不思議な感覚をよびおこすのは、私たちの現在、私たちの生きる時間が永遠の時の中の一瞬であることを、あらためて思い起こさせてくれるからに違いありません」とあるのだけれど、確かに懐かしさを覚えはするのだけど、気持悪い。解説のようには割り切れない。不快ではない。違和感、かな。きれいに見事に作りこまれた懐かしさ喚起装置。作りこみすぎて、懐かしさが美しい絵空事みたいだ、とふと思った。


金井美恵子「小説論」より。
 とにかく、小説というものは、どんな馬鹿な人間が出て来てもいいし、主人公が、およそ馬鹿な人間であってもいいんですけれど、と言うより、ビルドゥングス・ロマンという分野の小説などでは、なにしろ主人公の成長をあつかうわけですから、最初に主人公が馬鹿であって当然なんですけれど、書き手は、やはり拙劣な読者では困ります。
 そして拙劣ではない読者というものは、小説に何を書いてもいいかということと同時に、何を書いていけないか、ということも知っているわけなのです。何を書いていけないか、それはナボコフ流の言葉でいえば、「おまじない」というか、キャッチフレーズを書いてはいけないということでしょう。そして、「読んだから書く」という言葉は、本質的に、おまじないでもキャッチフレーズでもありません。それこそが書くという受難=情熱である、とでも言っておきましょう。

金井美恵子によれば、横光利一福永武彦加賀乙彦中村真一郎辻邦生伊藤整あたりは「おまじない」の作家らしい。おまじないというのは、こう書いておけば大丈夫的な定型、紋切り、チチンプイプイ。