堕ちたい生きたい捕らわれたい

さて、半年に一度、かならず巡りくる「書くことを語る」という試練が、目前に迫っている。仕事の合間に試練を乗り越えるための元気づけの本をパラパラ眺める。今日は坂口安吾。小説ではなく評論のほうを手に取る。

運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。

だが、堕落ということでの驚くべく平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

特攻隊の勇士はただの幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただの幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の歴史が始まるのかも知れない。

生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。(以上、『堕落論』より)


言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ。(『戦後文章論』より)

問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引き換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。(『日本文化私観』より)