歌は歌い手の数だけ。

佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』(新潮文庫)。なぜ書くのかということをめぐる、若々しく、心躍る、物語。文学オタクが書くものは、とかく自己完結しがちなのだけど、ここには、自己完結を打ち砕こうとする意志と言葉がある。才能は自分自身を打ち砕こうとする意志に宿る。


『越境する民 近代大阪の朝鮮人史研究』(杉原達 新幹社 1998)を読む。
上方落語「代書」(4代目米団治創作落語:1939年大阪松竹座にて初演。今里で代書屋をしていた米団治の経験をもとにした済州島出身の朝鮮人と代書屋の滑稽なやりとりが眼目の落語)のエピソードを入口に、戦前の、君が代丸をはじめとする直行の航路で結ばれた、大阪と済州島の人の往来、文化の往来、生活の往来を丁寧に追いつつ、「越境」をキイワードに地域からの世界史を構想しようという労作。

なにしろ、1934年の段階で、在日朝鮮人の約3割が大阪府在住で、在阪朝鮮人中、4分の1から3分の1が済州島出身。1926年〜1936年の13年間の大阪⇔済州島航路の利用者の平均は、往路(済州島→大阪)1万7343人、復路(大阪→済州島)1万4565人。往復合わせて年間3万人を越える。当時の済州島の人口は20〜24万人。済州島⇔大阪の濃密な関係がこの数字から立ち現れてくる。

こういうことは、大阪の東成や生野に代々暮らしている在日韓国・朝鮮人には自明のことなのだろう、そもそも生活はそのような越境の歴史の中からはじまっているのだから。しかし横浜に生まれ育った私は、ひとりの他者として、本を読み、体験者に聞き、現場に足を運んで生活を垣間見るというところからしか、この越境の歴史や記憶をひもといてゆくしかない。

たとえば、わが一族ならば、京浜工業地帯の町川崎や横浜で生きてきた「越境の民」としての記憶の語り伝えはある。その語り伝えを聞き知っているからといって、済州島という「島」からの越境の記憶に容易に近づけるわけでもない。私が、身内にも済州島出身者がいて、戦後すぐに済州島を襲った人間による大惨禍である4・3事件の、語られることのない生身の記憶を彼が心の奥底に秘め続けてきたことを知ったのもつい最近。

語りうる記憶の奥底に、言葉では語りえない記憶がある。その記憶の中にこそ、人間の生き死にの秘密も潜んでいるようにも思う。

何に突き動かされているのか、自分自身よく分っていないながらも、来週大阪の今里・生野に行く。動かされている時は、素直に動かされようと思っている。


『越境する民』で紹介されている歌がある。済州島の人々が港での旅立ち(別れ)の場面や大阪での厳しい労働の合間に口ずさんだという歌、あるいは正月やお盆といった年中行事でみなが集まると車座になって順番に即興で歌いついでいった歌。(だから歌詞は歌い手の数だけ無数にあるはず)。済州島の『青春歌』という歌の節回しで歌われるのだそうだ。

無情な君が代丸 私を乗せてきて/なんでこんな苦労をさせるのか
青天の空には 星の数よ/私の身の上にゃ 苦労ばかり
何で我が身は うらぶれて/日本あたりに捨てられた
神はあるのか いないのか/私を助けてくれぬのか
私に翼があったなら 飛んで帰りたいものを/それがないのが うらめしや