空白

猪飼野を詩人と歩いた。「恋は水色」が流れる喫茶店で詩人と珈琲を飲んだ。大阪文学学校の近くの居酒屋で詩人とささやかな宴、詩人の「至純の歳月」の話を聞いた。詩人が穏やかにこう言った。「君は全羅道の顔をしている」。どういう顔? 「穏やかで柔らかい、でもその表情の下の心は読めない」。20数年前の私の処女作について、やはり穏やかに詩人がこう言った。「あの作品には大きな空白がある」。海を越えてきた無数の人々の無数の記憶、そのぶ厚い記憶の地層を君はいまだあの時は知らなかったねと。「でも、その空白を埋めようと君は旅を重ねてきたのだろう」。そういうふうに私のこの20数年道のりを見ていたと詩人が言った。
確かに詩人の言うとおりなのかもしれない。空白を追いかけてなのか、空白に追われてなのかは定かではないのだが、その空白がそもそも何なのか分かっていなかったような気もしなくはないのだが、とにかく私は、埋めきれない何かに突き動かされて旅を重ねてきた。
いまあらためて、はっきりと「空白」を意識する。「空白」を語る言葉へと足を踏み出す。


ふっと、人と人の関係を考える。記憶を受け渡し受け継いでいく人と人のつながり。
人と記憶の関係についても考える。人間世界の記憶の地層の中から生まれ出て、やがてさらなる記憶の地層の厚みを構成することになる、そういう存在としての人。
記憶の地層に織り込まれている感情、痛み、哀しみ、よろこびもまた自分の中に織り込んで生きていく存在としての人。

そういう人と人のつらなり、人と記憶のつらなりの、ささやかだけどかけがえのない、一つの結び目織り目としての人。