全身、表現。

昨日、つい最近パートナーを亡くした友人を訪ねてきた。表現者同士、深いところで交感し合っている二人だった。共に生きることで、お互いの人生と表現を深め合う二人だった。失ったものがあまりに大きくて、心が動きを止めてしまっている、そんな様子にかける言葉もなく、ただそこに一緒にいた。

一昨日、原一男監督が井上光晴の死までの5年間を追いかけたドキュメンタリー「全身小説家」を観た。全身小説家とは、つまりは、小説を書くということは、体まるごと、生きることそのものの謂いであって、もしかしたら文字化されている「小説」という具体的な表現物は、生き方としての小説の、目に見えるほんの一部分にすぎないものなのかもしれず、生き方としての小説から見たら滓のようなものに過ぎないのかもしれない、というようなことまで考えさせる映画。
井上光晴が自分の人生まで創作していたとか、人たらしだったとか、そんなこともただそれだけ言うなら滓のような話にすぎない。目の前に並べられた文字だけ、映し出された絵だけを観て、そんな薄っぺらな平面上だけで、嘘だホントだと言うことの無意味さ。

表現者というのは、わざわざ「全身」をつけるまでもなく、常に、全身表現者なのだろう。滑稽なほど体ごと、人生ごと、ほとんどは文字にも言葉にも理窟にもならないことを、やむにやまれず、死に物狂いで、世の中に、人間に、ぶつけて吐き出してゆく。それにまた滑稽なほどに死に物狂いで真正面から受けて立つ人を探し求める。そういう愚か者でありたいし、そういう愚か者に出会いたいと、心底思う。



翻訳。429ページ中、245ページまで完了。あと184ページ。6月末までにやり切れるか?