要約してはいけない。

久しぶりに、娘と、午後いっぱいまったりお茶。夕方ぽっかり空いた時間、再び黄金町シネマ・ジャックで、原一男監督ドキュメンタリー映画「極私的エロス・恋歌1974」を観る。原一男という人はカメラを持たない時には人間とどう向き合っているのだろう? 素手原一男は、きっと、何もない誰もいない世界にひとりポツンと立っている、そんな人なのではなかろうか。ふっとそんなことを思う。エロスも恋歌も原一男が欲しくてたまらなくて、どうしても手に入れられないもの。それを執拗に追いかけて、ついに最後に突き放された、そういうお話なんだろうと理解。何とも言えない、すっきりしない、知らぬ間に毒を盛られたような、あとから精神的不調を少しずつきたしてくるような、けっして愉快ではない、複雑な後味。チラシの映画評には、「生きることの原点を描ききった」とか「見る者を強烈にとらえてゆさぶり続ける恐ろしい映画」とか「真実を見ることの衝撃」等々。確かに出産シーンは怖かったが……。



本を読む。
「要約してはいけない」。そう言ったのは李静和。『求めの政治学』の「難民・船・タンパから見つめる世界」の中での言葉。
「9月11日、いろいろな人のたくさんの日常があったはずなのに、いまは「9・11」としゃべったとたんにイコール、テロという言葉を連想させてしまう。日常で絶対に使わなかった言葉が、いつの間にか、日常の言葉になってしまう。……すぐに要約されてしまう。要約すると、非常にスピード化していく。…… 人間は言葉を使う以上、それは想像力にもつながるし、気持ちの構えにもつながるからこそ、絶対にあのスピードはなんとか止めないと、あるいはそのスピードに乗ってはいけない」


要約されたことで消去された記憶を、どう取り戻していくか。
要約したことで死んだ言葉を、どう甦らせていくか。

「言葉が生きているところは現実も生きるのです。人を救えるのです」