さりげない哀しみと…

さてさて、昨日6月1日は父の命日で、本日2日は私の誕生日。感慨がないこともない。

正岡子規『病床六尺』を今さらながら読む。死の三日前まで書き続けられた日々の記録。確実に刻一刻と迫り来る目前の死に向かいつつ、でも日々生きているんだよなぁと、本の中の子規の姿を見つめる。もちろん、当の私も漠然とながらも確実に死に向かいつつ、それを忘れて日々生きている。

チェーホフ傑作選「馬のような名字」を眺める。ドストエフスキーよりもトルストイよりもチェーホフがいい。チェーホフのさりげない哀しみと喜びがいい。


「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
○因みに問ふ。狗子に仏性ありや。曰、苦。
 また問ふ。祖師西来の意は奈何。曰、苦。
 また問ふ。………………………。曰、苦。」
              (「病床六尺」 明治35年6月2日)