運命、もしくは諦念という名の「記憶」

8月18日に済州島に入って、この二日間であまりに多くの人に出会い、多くの話を聞き、すでに頭の中は混沌の渦。4・3事件の記憶(なかでも語られることのない記憶)、その背景にある済州島の歴史・文化・風俗を知りたいという旅人に、出会う人すべてが全力を尽くして応えてくれる。それを彼らはみずからの使命と考えているようであり、それに向き合う私もどうやら彼らから大きな使命を与えられているのであって、心して話を聞き、受け取るべきことをきちんと受け取り、伝えるべきことを自分の言葉で伝えていかねばならないことにあらためて気づかされる。冷静に考えれば、恐ろしいことになっているのだが、一度足を踏み出した以上はそれなりの覚悟をもって前に進んでいくしかないこともあらためて知る。

4・3平和記念公園に行く。実を言えば、4・3には向き合いたくないから、あそこには行きたくないと言う人が車を出して連れていってくれる。4・3の記憶を語ることが長らく禁忌であった島で、その記憶をどうしようもなく封じて生きてきた、語れば国家からどんな報復を受けるのかわからない恐怖で語らなかった、という次元でその人は4・3の記憶に向き合いたくないのではない。4・3が一族にもたらした悲劇、大黒柱である父たちを失ったことからもたらされた妻たちやその子たちの4・3後の長い人生があまりに苦しかったゆえに、4・3を引き起こした国家の暴力を恨むのではなく、4・3に巻き込まれて、あるいはみずから4・3に関わっていって、家族を残して消えていった父たちを恨む、家庭を守ることをせずに、思想や主義に殉じた父を恨む。そんなふうにして、4・3という大きな歴史は、家族のなかで受け継いではならない父たちの記憶として封じ込められてきたとその人は語る。(4・3後に生まれたその人にとっては、4・3で消えたのは、父ではなく祖父にあたる。その人は「父」を失った父と母のもとで育った)。
4・3の記憶は、その人にとっては、家族を棄てた父たちの記憶として受け継がれている。成り行きで私を連れて4・3記念公園に行くことになったその人は、自分にとっての4・3の記憶(家族のなかで語り継がれない記憶)について、あらためてつくづくと考え、そのように整理したのだと語った。
「国家に関わるな、家族に関われ」。それがその人の家族が4・3から得た教訓なのだとも語った。同時に、4・3の記憶は、運命、もしくは諦念という別名で、触りようのないもの、語っても仕方ないものとして家族のなかにあり続けたのだとも言った。

4・3記念公園には、沖縄の平和の礎のように、地区別に犠牲者の名前が刻まれた石碑が敷地のなかにずらりと並んでいる。その人はそこで初めて祖父の名前と亡くなった日時と死亡時の年齢を見た。今まで祖父とだけ聞いていて、自分の中では老人でしかなかった祖父が、21歳の若さで亡くなったことを初めて知り、激しく動揺したとその人は話した。

一日、その人と過ごして、語りえぬ記憶(=記憶の空白)といかに向き合うかということを、深く考えさせられた。

明日はクッ(巫俗)を観にいく。朝から一日がかり。巫俗では済州島の神話が語られる。そこに島の共同体の歴史と意識へと分け入る通路がある。