落穂拾い

済州島の中山間の村では1980年代半ばまで、トイレは外、しゃがみこむその下には豚。どの家にも豚がいた。トイレの現代化(!)は、済州島で何かの全国大会があった時に、このような原始的なものを見せてはならないという行政の方針で推進されたという。

文民政権が登場するまで、学校では軍事教練が行なわれていた。男子も女子も。この軍事教練を経験した韓国人女性は、すさまじく包帯の巻き方がうまいという。(立派な従軍看護婦になれる)。

1991年の段階で、記憶を封じられてきた済州島の人々にとっては、特に4・3事件以降に生まれた人々にとっては、4・3事件の知識はもうほとんどなかった。1991年、済州島からソウルの大学に入学したある人は、光州事件10周年に向けた学生たちの動きの中で語られる4・3事件に触れて、初めて自身の島の記憶に触れたという。光州事件とともに語られる4・3事件がある。

済州島出身の80年代の学生にとっても90年代の学生にとっても、玄基栄の小説『順伊おばさん』が与えた衝撃はすさまじく大きかった。玄基栄が命がけで書いた4・3の記憶が、その記憶を封じられた人々を揺さぶった。

済州島では、陰暦8月1日から秋夕まで、伐草(벌초 ボルチョ)。村共同体の大切な行事。島を離れている者たちも、ポルチョの日には島に戻ってきて、墓の草刈りをする、戻れない場合はそれなりの品物を送る。かつてほど厳格ではないものの、この風習はまだまだ生きている。
(参照 http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001221278&PAGE_CD=15
    http://alcohol-lic.tistory.com/29