挟み撃ち

済州島中山間地域。海と山に挟まれたこの地域は、ただそこに住んでいるというだけで、敵と味方、国家とそれに抗する武装隊、生と死の出口なしの疑心暗鬼の狭間に多くの人々が追い込まれていった。山に逃げても殺される。海岸部に降りていっても、やはり殺される。山は軍側から見れば武装ゲリラの跋扈するところで、そこに行けば武装ゲリラとみなされる。海に降りていっても、武装ゲリラとのつながりを疑われる。どう転んでも、中山間地域は挟み撃ちの袋小路。

山の勢力の補給路を断ち、孤立させるために、軍は山と海の間の中山間地域焦土化作戦を展開した。1948年秋から翌年春にかけてのこと。その間に推定3万名の無辜の民が殺されたという。

山にも逃げられず、海にも逃げられなかった村人が潜んだ洞窟に行った。クンノルケ洞窟。
棘のある小さな木、刀のように鋭い葉の草の茂みをかきわけて炎天下を30分。洞窟の入口は、よそ者には到底見つけられない場所にある。入口は狭く、腰を低く落とすか、這いずらなければ奥には行けない。狭く細長い通路を這いずるように進んでいくと、いきなり広い空間に出る(という。とうのも、閉所恐怖症の私は、どんなに頑張っても恐怖に凍りついて奥へと進めなかった)。洞窟の中は真っ暗。長い長い食道を通って、ぽんと胃袋に落ちる、そんな感覚なのだろうと、同行した人々の洞窟探訪記をあとから聞いて思う。

私が遂に中に入れなかった、深い壷のような場所で、120名が50日間も暮らして、ついに生き延びたという。暗く狭い地の底の袋のなかで、人々が互いに助け合い、大きないさかいもなく、暮らすことができたのは、村自体が大きな家族とも言える親密な共同体だったからともいう。この村には二つの苗字しかなく、ほとんどが血縁、もしくは姻戚関係だったという。

もう一つ、村人が軍によって公開銃殺されたり、生きながら焼き殺されたりした村の跡も訪ねた。家があったところには竹林がある。竹は生活に必要な道具を作るための大事な材料だった。今、その村の跡には、竹林に囲まれた畑や空き地があるのみ。村人たちは当時の凄惨な記憶にはできるだけ近づきたくない。だから、虐殺のあと、4・3事件の後も、村には戻らなかった。学校もある、それなりに裕福な村だった。

記憶ゆえに、村には戻れない。その記憶ゆえに、空白となった村に、4・3は今も終わることなく、つづいている。

記憶は、現在と過去の間で、いまだに人間を挟み撃ちしている。