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西日本新聞連載『済州オルレ巡礼〜記憶と空白の旅〜』全十六回脱稿。一息つく。

『昼の家、夜の家』(オルガ・トカルチュク)、『生きて、語り伝える』(ガルシア・マルケス)、『嘘から出たまこと』(バルガス・リョサ)、『灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ)、『変幻自在の人間』(小島信夫)を並行して読む。さすがに頭の中が混乱。でも、読んでいる瞬間瞬間の歓びに、どんな読み方もそれが幸福ならばいいんだと思う。幸福はカケラで味わう。とりわけ、『昼の家、夜の家』は無数のカケラで創られた、突き刺すような幸福の世界。



『変幻自在の人間』から、いかにも小島信夫らしい、芝居を語りつつ繰り広げる、他人事のような口ぶりの小説論。
「一口でいうと、私が芝居を見て気になるのは、舞台で人が現実の人の模倣をしているということである。つまりマネというものが、どんな場合にでも、おかしな、弱いものだ、という意味で、私は芝居が一応気になるのである。それから劇の筋をふんでいるということである。劇的だということである。  ところが、こうしたマネや、劇的だというものは、いうまでもなく、劇の長所であって、その中へはいりこむと、これはタノシイ健康な安楽でもあるのにちがいない、と私は思う。私は自分で小説を書いていても、ふいと芝居の台本とおなじように、会話と(そこで顔をあげる)といった文章だけで書けたら、どんなにタノシイだろう、と思うことがある。心理など一切書かないのだから、とても清潔でいい。その代わり、心理など書かないでわかるようにちゃんと仕組んでなければならない。それはなみ大ていのことではないが、それでも、この台本のような文章はいいな、と思う。 たぶん私がこんなふうに思うのは、即物的な描き方がしたいということではないだろうか。そうして即物的といえば、劇はたしかに即物的なのである。 もっとも即物的といっても、台本は実際に芝居を人がやるのだからいいが、小説は台本のように書くのでは、読む方がメイワクで、とてもイメージがつかみにくいはずである。 そんなふうに考えていると、ある日、私などは、ああ芝居というものは、何と健全でいいものだろう、小説のもつ、表現の自由など、不健全なものだ、というふうに思う」(「小説と戯曲の間」より)


年を重ねるにつれ、自分自身のことすらきわめて即物的に書くようになる小島信夫昭和35年の文章の一部。それにしても、この時点で、既に、自由だなぁ、小島信夫は。


舞台『想い出のチェーホフ』における「チェーホフのリズム」を語る言葉にも、小島信夫の表現論がくっきりと浮かび上がる。チェーホフの言葉に長い時間、大きな空間が織り込まれた一瞬を感じ取る小島信夫の感性がそこにはある。

「人間がこの世にあるということは、実は、この舞台での人物たちのようにあるということだ。生きているということは、近くにいて離れており、離れていて近くにあり、(どちらもけっきょく同じことだ)たしかな言葉は、誰にともなく語りかけるという態度のときの言葉であり、配慮の行き届いた……ほとんどリズムだけになってしまう言葉によってしか表現できないということのようでもある」(昭和46年)

こうして長々と書き写すということは、つまり、私は小島信夫にひどく共感しているのだろう。