しるしつき

本日は多摩センターにて、恵泉女学園大学文芸創作クラス 第7集の編集会議、そして第6集の完成打ち上げ。打ち上げで頼んだのは、女子会コース。コースの目玉は生ビールを除くドリンク飲み放題、デザート食べ放題、(料理がやや手薄の感あり)、若い女子たちはよく飲み、デザートもよく食べ、コース堪能。年かさ女子である私は、いや、デザートは一つで結構……、というわけで。スイーツを短い時間に大量に食するのには、若い体力が必要。しみじみと老い(?)を感じる。


海炭市叙景』(佐藤泰志 小学館文庫)読了。ふっとした人のたたずまいに、こんなにも心の動きや揺れを読み取り、それを言葉に置き換える能力を持つ(=人間の心の闇、哀しさ、切なさに目をつぶったり、流してしまったりすることができない)者というのは、ひどく生きづらかったにちがいないと、書き手の佐藤泰志を想う。佐藤泰志自死の具体的な理由は勿論知らないが、この繊細すぎる感受性はあまりにも苦しい。


『ダロウェイ夫人』(ヴァージニア・ウルフ)。
「わたしが好きなのはこれだ。今というとき、眼の前にあるもの、たとえば自動車に乗っている肥った婦人だ。だから、と彼女はボンド街の方に歩きながら自問した。自分がいつか必ず全くなくなってしまうこと、これは重要なことだろうか。自分がいなくなっても、これらすべてはそのまま存続してゆくだろう。自分はそれを残念がるだろうか。それとも死が絶対にすべての終りであると信じて、慰められるのではないか」(これは、作品冒頭で道行くダロウェイ夫人の、意識の流れの、ほんの一部分)

ウルフの写真を見た。見た瞬間、凍った。その目は明らかに「しるしつき」の目のように感じられた。この目で見ていた世界、覗き込んでいた人間の意識の流れを想うと、大変な恐怖と苦しみを感じた。

いったい、世界を観て、人を観て、感じて、書くということは、どれほどの重荷を魂に背負わせ、同時にどれほどの重荷から魂を解放するのだろう。