道のほとりで

鄭芝溶(チョン・ジヨン)の詩『고향 (故郷)』を読む。

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『ふるさと』 訳:金素雲
ふるさとにかへり来て/ふるさとの あくがれわびし。
雛いだく野雉はあれど/ホトトギス すずろに啼けど、
ふるさとは こころに失せて/はるかなる港に 雲ぞ流るる。
けふまた山の端に ひとり佇めば/花一つ あえかに笑まひ、
かのころの草笛 いまは鳴らず/うらぶれしくちびるに あぢきなや
ふるさとにかへり来たれど/ふるさとの空のみ蒼し、空のみ蒼し

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『故郷』 訳:金時鐘
故郷に 故郷に 帰ってきても/思い焦がれた故郷はなくなっていて
山雉 卵をいだき/呼子鳥わが季節を謳ってはいても
心は自分の故郷に抱かれることなく/遠い港へと浮いていく雲。
今日も山山の端にひとり登れば/白い小花人なつかしげに笑い、
幼い頃の草笛いまはひびかず/干からびた唇に苦みが伝う。
故郷に 故郷に 帰ってきても/思い焦がれた空のみ いや青く高まっていて。

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翻訳という作業を通して、ふるさとにまとわりつく日本語の「抒情」を考える。
戦前の、金素雲の、見事に日本語の抒情に移し変えて謳われた「ふるさと」、戦後の、金時鐘の、日本語の抒情から「故郷」を取り返そうとする試み。


李光洙の詩「私は」。こんな詩も李光洙は書いていたんだなと、あらためてしみじみ読む。

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「私は」
私は道のほとりに坐っています/家というには憚りますが/方流れの屋根小屋を一つ張って
往き交う人ならどなたでも/お入りになって休んでください/手狭でむさくるしくはありますが/すぐさま発たれてもよく/ゆっくり逗留されてもかまいません。
私は語り手になりましょう/そして歌もあるだけ唄うとします/ですがこれは聴きたいお方だけのことでして/お気に召さない方は/聴いてくださらなくてもよろしいのです。
私は生あるかぎり/この道のほとりで坐っているつもりです/そして話をして/唄っていようと思います/往き交う人は どなたでも/お入りになってかまいません/発ちたいときはいつなりと お発ちになってよろしいのです

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植民地の親日派文学者としてその名を歴史にとどめることになった李光洙の、数々のプロパガンダ親日的文章の嘘くささがない、静かな覚悟といった情感漂う詩。哀しみが滲む……。


最近バランス悪く肥りつつある。ビールを控えるべし……。