愛情なくして……

今日は打ち合わせともろもろ準備の日。

午後は、在日韓国YMCAで3月6日に行なわれる「コリアン・ディアスポラ」の企画についての打ち合わせ。ウズベキスタンから高麗新聞編集長を迎えての、コリョサラムと在日の出会いと語らいの会を持とうとしている。私は進行役として関わる予定。

夕刻、ハンセン病連載の全6回中5回目までを仕上げ、9月初旬に熊本学園大学で担当する「東アジア文化論」(仮称)の集中講義のシラバスを書く。

『植物祭』に引き続き、富岡多恵子『冥途の家族』を読む。もっと早く読めばよかったと後悔するほど、胸に食い込んだ。
「わたしは、自分のまわりに、コトバとか知識とか、連帯によって、自分のいいたいことのかけらもいえないひとたちがいたのを強く感じた。かれらは、なんにもいわずに、死んでいた。まだ生きながらえているひとも、なにひとつヒトに通用するコトバで喋れない」(富岡多恵子エッセイ「ウラミ・ノヴェル」より)。父や母だったりするそんな人々の「わけがわからない」さまが、「わけのわからぬ話のキレハシ」となって耳の底にたまり、頭に運ばれ積み重なってしまったから、わけのわからぬまま、ありのまま書かねばならない、富岡多恵子がいる。

富岡多恵子の書くという行為の底には、「わけがわからない」ままに生きたり死んだりしていくものへの愛情がある、とは解説者の弁。なるほど。

たとえそれが捩れていたり歪んでいたりしているとしても、やはり愛情なくしては書けないと、痛切に私も思う。

さてさて、山折哲雄五味太郎の神様対談を読んで寝ようかな。