「詩とは――ことば(情緒)に頼らないでことばをつかうこと」と言ったのは、詩人のぱくきょんみさん。
山之口獏の詩「座布団」を引いて、詩そのものについて語っている。
「座布団」
土の上には床がある。
床の上には畳がある。
畳の上にあるのが座布団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしてゐるやうに
住み慣れぬ世界がさびしいよ
ぱくきょんみさんが言うことには、「ことばが積んで文となる。その文が積んである。その文とつぎの文のアキが積んである。 「さびしい」という情緒の殺し文句をつかっているが、つかっているんであって、情緒的なつかい方ではない。だいたい隔行のアキなんて、ことばは究極的に情緒であるからアキにするしかないんだという、詩人の自負心をありありと主張しているようではないか。そうしてアキがさびしさの堆積であることを詩のコンポジションとして成り立たせていること――。 見たまんまをそれぞれの言葉の指示機能を全うさせて、コンポジションを図る。 ことばの情緒を刈り込んで――じっさいには刈り込めないから――ことばの組み合わせに情緒を喚起させないようにして、コンポジションを図る。 思い返せば、わたしはここに詩の入口をはっきりと見届けたのである」。
ぱくきょんみさんはそうは書いていないが、沖縄出身の山之口獏が日本語で詩を書くことと、在日韓国人である自身が日本語で詩を書くことにひそかに重ねる合わせる部分もあったのだろうか。
大学に進学して朝鮮語を学ぶようになって、当然なかなか身につかず、朝鮮語を意識的に習得しようなどという精神ゆえに肉体が常に緊張していた頃のことを、ぱくきょんみさんはこう書く。
「とりわけ朝鮮語がわたしにはよくなかった。青春の入口でザイニチ韓国人のアイデンティティなんて言葉に精神がひっ掴められているもんだから、じぶんの姿がくさくって身もこころもついてゆきたくなくなったんである。ただし、そうであるからこそ、朝鮮語を習うというのは、わたしにとっての詩との決定的な出会いでもあった。かんがえてもみてください。じぶんが朝鮮人であるという意識(情緒)はけっきょくことばの上でのことなのである。そのことば(情緒)が土台ニホン語であることを認めること、そのことば(情緒)をつかわないで表現すること――そこに詩の行為があるということ」
ぱくきょんみさんの詩をめぐる言葉に、小野十三郎から金時鐘へと連なる、詩にまつわる厳しい言葉を想い起こす。
「抒情は批評である」
ことばから、しきりにまとわりつく情緒をひきはがし、きれいさっぱり片付けちまえ! 詩人たちはそう言っている。惰性のように情緒が流れ落ちていく水路になっていることばの連なりを、ばらして、別の水脈に組み立てなおして、流れくる情緒を振り払ってしまえ! つまり、「表現する」とは、その核心においては、そういうことなのだろうと思う。