フスターヴァチ(起床)!

プリーモ・レーヴィ『休戦』(岩波文庫)。

冒頭、「雪解け」の章において、初めてロシア軍がプリーモ・レーヴィが収容されていたブナ=モノヴィッツのラーゲルに姿を現した時、その最初の4人の若い騎馬兵がラーゲルの惨状を目の当たりにした時のことを、レーヴィはこう書く。(これは生涯レーヴィを貫き通していた感覚でもある)。

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彼らはあいさつもせず、笑いもしなかった。彼らは憐れみ以外に、訳の分からないためらいにも押しつぶされているようだった。それが彼らの口をつぐませ、目を陰うつな光景に釘付けにしていた。それは私たちがよく知っていたのと同じ恥辱感だった。選別の後に、そして非道な行為を見たり、体験するたびに、私たちが落ち込んだ、あの恥辱感だった。それはドイツ人が知らない恥辱感だった。正しいものが、他人の犯した罪を前にして感じる恥辱感で、その存在自体が良心を責めさいなんだ。世界の事物の秩序の中にそれが取り返しのつかない形で持ち込まれ、自分の善意はほとんど無に等しく、世界の秩序を守るのに何の役にも立たなかった、という考えが良心を苦しめたのだ。
 こうして私たちにとっては、解放の時さえも、重苦しく、閉ざされたものになった。心は、喜びと同時に。過度のつつしみの感覚に満たされた。私たちはこうした感覚によって、良心の呵責を軽減し、わだかまっている不快な記憶を取り去れると思った。だが心の中には苦痛も入り込んできた。なぜなら私たちはそれが起こりえないことを、過去を消し去るような純粋で素晴らしい事態は決してやってこないことうを感じていたからだ。冒瀆の印は私たちの中に永遠に刻まれ、それに立ち会ったものたちの記憶に、それが起きた場所に、これから語られる物語の中にずっと残るはずだった。というのも、これは私たちの民族、私たちの世代の恐ろしい特権なのだが、私たち以上に、疫病のように伝染する。その冒瀆の癒しがたい性質を理解しているものはいなかったからだ。人間の正義がそれを根絶するなどと考えるのは愚かなことである。それは無尽蔵の悪の根元なのだ。それは収容所に入れられた犠牲者の体と心をずたずたにし、打ちのめし、破滅させた。そして虐待者には汚名としてつきまとい、生き残ったものには憎悪として永遠に巣くって、みなの意志に反し、復習の渇望、道徳的敗北、拒絶感、厭世観、諦念といった具合に、様々な形で現れるのだった。

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アウシュビッツから、イタリア・トリーノまでの、9ヶ月にも及ぶ、帰国できるかどうかぎりぎりまで分からぬ、生と死の間の宙ぶらりんの、いわば止まった時間、休戦の時間に果たされた帰還の旅。それは死の世界からの生の世界への帰還の旅たりえたのか。アウシュビッツの毒は、冒瀆の印は、体から消え去ったのか。人間性を回復するとはどういうことなのか。


『休戦』の冒頭の掲げられたレーヴィの詩一編。


私たちは、残忍な夜に夢を見た、
魂と、体と、全身全霊で、
濃密で荒々しい夢を。
家に帰り、食事をして、起きた出来事を語っている。
朝の命令が、
  あの「フスターヴァチ」が、
短く、静かに響くまで。
すると胸の中で心が砕ける。

いま家を探し出し、
腹は満たされ、
起きた出来事を語り終えた。
するとその時だ。すぐにまた聞くことだろう
外国語の命令を、
  あの「フスターヴァチ」
            1946年1月11日


※「フスターヴァチ」。ポーランド語で「起床」。アウシュビッツの起床の号令。