私が泣いているのは、自分のことやなんかじゃないよ

6月1日〜3日と、新潟・柏崎に行ってきた。6月2日、わけあって柏崎でパチンコ。パチスロエヴァンゲリオン」で大当たり。使徒殲滅だの、非常事態だの、暴走モードだの、ピコピコ光りだすと、「残酷な天使のテーゼ」が高らかに鳴り響いて、玉は出るし、人との約束の時間は迫るし、それはもう大変なことに…。

柏崎の夕刻、お天気雨の空に虹がかかっていた。天から誕生日の贈り物。


サン=テグジュぺリ『人間の土地』より

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――ぼくが泣いているのは、自分のことやなんかじゃないよ。

そうだ、そうなのだ、堪えがたいのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方へ走り出したい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ。


ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動き出す、何だというので、沈みかけている人々を助けに、間にあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうが駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!


飢え、ぼくらが、感ずるところのもの、スペインの兵隊を、砲火を冒してまで、植物学の講義に導くあの飢え、メルモスを、南大西洋調査にと追いやり、また別の一人を彼の詩に追いやりつつあるあの心の飢えは、この伝授の系統が、まだ終わっていない、ぼくらがぼくら自身と世界を認識しなおす必要のあることの証拠だ。


彼らとて、じつはぼくらと同じものなのだ。ただ彼らは、自ら飢えているとは知らずにいるだけだ。


眠りっぱなしにされている人間が、あまりに多くありすぎる。


精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。